幌筵艦隊の生活日報

La vie est drôle.

忙しい人のための特撮怪獣映画

自分は特撮怪獣映画が大好きである。あらゆるサブカル含めてみてもやっぱり一番好きなのはコレだし、幼少期から小学校高学年あたりまでは教育番組や他の子供向け番組の代わりに特撮映画を見て育ったといっても過言ではない。

そのくらい自分の中に根付いている特撮映画であるが、最近またシリーズを見返すことがあり、子供のころは只々怪獣がカッコいいとか爆発スゲーとしか感じなかったのが、自分自身が大人になったからか「この 作品はこの技術とか描写がすごいなー」とか「このレベルの演出・ストーリーだったら大人の鑑賞に耐えるレベルの映画として他人にもお勧めできるなー」とか考えたりもできた。

で、これはいい機会ということで、「これだけ観とけば特撮怪獣映画のなんたるかが分かる!」といった感じのリストを作ってみようと思い立った次第である。特撮怪獣映画というあまり一般受けしないディープなジャンルの入門として見なくても、今回選んだのは単なる怪獣映画としてではなく大人の見る邦画としても十分通用するクオリティのものを選別したつもりなので、単純に「面白い映画が観たい」と いう需要にも応えられるものではないかな、と思う。

チープな文章になるかもしれないが、この記事を見て特撮怪獣映画に興味を持ったなら、ぜひ近所のビデオ屋でDVDをレンタルすることをお薦めする。

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さて、「特撮怪獣映画」と一概にいっても種類・本数が多く、ウルトラマンなどのヒーロー物も含めればとても完璧にカバーできるものではない。従って、今回まとめる範囲は「製作会社として主に東宝大映から映画として配給された”怪獣が主役の”作品」に限ることにする。ウルトラマンシリーズなどテレビ・OVAを主体としたヒーロー物は含まれていない。こちらもこちらで面白いものは沢山あるんだけども。。。

また、映画の質を評価する基準として、私的なものではあるが【リアリティ】【特撮技術】【ロマン】の3つを考慮することにした(あくまで主観的なものなので、あしからず)。一つ目については、「巨大な怪獣が人間世界に現れる」という非日常な現象を、役者の演技だったり背景設定やストーリープロットであったりにより、どこまでフィクションを感じさせない現実感を伴ったものとして表現できているか、評価した。二つ目では、ミニチュアセットの組み方や怪獣の操演、破壊・爆発描写など、特撮映画が特撮映画たる技術を、どれだけ高いレベルで活用出来ているか、ということを重点的に評価した。最後の【ロマン】であるが、【ロマン】って何ぞやということを言い出すと人それぞれで概念が分かれるので、あくまで自分にとってのロマン性を基準にすることにした。項目の詳細については後ほど説明することとする。

このリストでは、上記の三つの評価項目に照らし合わせ、特にポイントの高いと思われる各作品について、見どころなどを紹介したいと思う。基本的に自分はシリアス志向の怪獣映画が好きで、人に勧めるならそういったものの方がいいとも考えているので、コミカル色の強い作品についてはそれが例え優れた作品であってもここには挙げないようにした(例えばキングコング対ゴジラなんかはこの例になる)。

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【リアリティ】



①「ゴジラ(1954)」

あのゴジラが、最後の一匹とは思えない。

≪基本データ≫
1954(昭和29)年11月3日上映 (併映:仇討珍剣法)
配給:東宝
観客動員数:961万人
製作:田中友幸
音楽:伊福部昭
特殊技術:圓谷英二(円谷英二
監督:本多猪四郎

≪ストーリー≫
事件は一艘の貨物船の沈没事故から始まった…。救助に向かった船もまた炎上・沈没。大戸島に流れ着いた生存者は恐る恐る『巨大な怪物に襲われた】と語る。そして嵐の夜、その巨大な怪物は大戸島に現れ暴れまわった。

山根博士らは政府の命を受け災害調査団を結成し、大戸島へと向かう。博士の前にも姿を現した巨大怪物は、大戸島の伝説からゴジラと名づけられる。ゴジラは度重なる水爆実験により住処を追われて現れた怪物であった。一方、山根博士の娘・恵美子はかつての婚約者・芹沢を訪れる。そして彼の家で『オキシジェン・デストロイヤー』の実験を目の当たりにし、驚愕するのだった。決して口外してはならないと恵美子に告げる芹沢であった。 
そしてゴジラは東京に上陸。放射能火炎により首都東京を火の海と化す。防衛隊の抵抗も効果のないままにゴジラ東京湾へと去っていった。ゴジラによる被災者に触れ悲劇の再来を避けたいと願った恵美子は尾形に『オキシジェン・デストロイヤー』のことを明かしてしまう。水中の酸素を一瞬のうちに無くし全ての生命を液化させる魔の存在…。しかし、あの巨大な怪物を葬るには、この悪魔の薬に手を染めるしかない。兵器化されるのを怖れる芹沢は頑なに『オキシジェン・デストロイヤー』の使用を拒否するのであったが、いつ訪れるとも知れないゴジラによる災害、被災者の姿を見た芹沢は一度だけの使用と決め、『オキシジェン・デストロイヤー』によって東京湾に潜むゴジラに一人で立ち向かっていく…。

≪総論・見どころ≫

「特撮怪獣映画」っていってこの「ゴジラ」を挙げないのは、マウントポジションでぶん殴られても文句は言えない所業。特撮怪獣映画という狭いジャンルだけでなく、日本映画全般においても抜群の知名度を誇るゴジラシリーズ、その第一作にして最高作である。ハリウッドでも公開され大ヒットとなった。本作があったからこそ、今日の特撮怪獣映画があるのだといっても過言ではないだろう。「特撮」という技術についても、今作によって、主に戦時中の戦意高揚映画の中で使われ戦後見捨てられかけていた特撮技術の価値が再認され、解体されかけていた「特殊技術課」が東宝内に再編成されたという経緯がある。そんな有名映画「ゴジラ」であるが、はそもそもが「子供向けの怪獣映画を作りたい」というモチベーションから製作が始まったわけではない。当時の時事として、ビキニ環礁での水爆実験と、第五福竜丸被爆事件が社会問題となっていたことを受け、これに着想を得た田中氏によって「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という 企画が立てられた。そんな生い立ちを持つ本作が持つメッセージとは何かを考えてみると、勿論怪獣という架空の巨大生物の魅力というのもあるだろうが、それ以上に「核兵器への恐怖、決して癒えない戦争の傷跡」といったものに注視すべきであろう。作中ゴジラが東京を襲う際の侵攻ルートがB-29爆撃機の東京空襲ルートと全く同じという描写もあるし、ゴジラから逃げ遅れた母子の発した、迫りくる恐怖を前にしながら「もうすぐ(恐らく戦争で死んだ)父ちゃんのところに行けるからね」というセリフも印象的である。このように、ようやく戦争の傷跡から立ち直りかけた日本を、日本人の記憶に戦争の忌み子として最も色濃く刻みつけられている核兵器より生まれ出でた巨大怪獣が襲い首都東京を火の海にする、というストーリーは、強烈なインパクトとリアリティを伴い当時の観客に叩き付けられたのではないかと察せられる。それほどまでに、本作の内包する、単なる娯楽映画としてではなく骨太な社会派映画としての演出は現実味溢れるものなのである。ゴジラ登場時、人々が恐慌し逃げ回るシーンや、襲撃後死傷者で溢れかえる病院の悲惨なシーンなどでもエキストラがしっかりと演技しており、「未知なる=予知・迎撃手段のない巨大生物がいきなり都市部に現れたらどうなるか」という、後の特撮怪獣映画ではタブー とされがちだった命題が明確に的確に描かれている。

なお、当リストでは本作を【リアリティ】部門の中で紹介しているが、潤沢な予算と若き円谷組の意欲と試行錯誤によって実現されたハイクオリティなミニチュアセットや、音響・操演などの工夫など、特撮技術それ自体に関しても勿論後続の映画とは一線を画すレベルがあるので、こちらもぜひ注目してほしい。

以下見どころ

・大戸島にて~ゴジラ出現~
よくこの映画(というかゴジラ映画)の名場面として挙げられるシーン。元々はホラー映画を意識して作られたという本作では、作中初めから未知なる巨大生物の存在が示唆されるものの、肝心のゴジラは中々姿を現さない。劇中中盤に差し掛かろうかというタイミングで浮かび上がってくる伝説の怪獣「呉爾羅」。作中 の人物や映画を見ている観客が「ゴジラ」という怪獣を意識し、実像を各々にイメージしかけたころ、なんの前触れもなく大きな足音と共にいきなりそれが現れることになり、初めて怪獣映画を見る人はこれまでのギャップも相俟って大いに驚くことだろう。

・オキシジェン・デストロイアーの資料を燃やす芹沢博士
基本的に自分は怪獣映画において「人間を主体にしたドラマ」は必要ないと思っている。怪獣映画の主役は怪獣であり、映画に登場する人物はそれに巻き込まれる有象無象に過ぎず、群像劇ならばまだしも個人として怪獣を差し置いてスポットを当てられる存在であってはならないからだ(なのでそこらへんが過剰に演出されているミレニアムシリーズとかはあまり好みではない)。しかしながら、只々怪獣が暴れまわったりプロレスしているだけの映画もまた妙味に欠けるわけで、 その中に如何にさりげなく、しかして印象的に人間の心理(苦悩・葛藤)や奔走などを差し込むか、というのはリアリティを求める怪獣映画には必須な要素である。そして「ゴジラ」はその意味で最も成功している作品であるといっても過言ではなく、それが最も色濃く表れているのが芹沢博士関連の描写。戦争によって顔の半分を奪われ、さらにその戦争の禍根ともいえるゴジラによって自らの半生を費やした研究の成果を犠牲にせざるを得なかった彼の心情描写は、この物語には必要不可欠なスパイスであろう。彼の結末を考えれば、オキシジェン・デストロイアーの使用を覚悟し、後の世のために関連資料を全て荼毘に伏そうとと手に取り、数秒の間自身の人生の結晶であるそれらを見つめる博士が何を思ったのか、怪獣映画ファンではなく、いち研究者を目指すものとしても強く感情移入した場面である。

②「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ(1966)」
「第1プラス線よし!第2マイナス線よし!」 「第4マイナス線よーし!」

≪基本データ≫
1966(昭和36)年7月31日上映
配給:東宝
製作:田中友幸、角田健一郎
音楽:伊福部昭
撮影:有川貞昌、富岡素敬
監督助手:中野昭慶
特技監督円谷英二
監督:本多猪四郎

≪ストーリー≫
嵐の夜、三浦半島沖を航行する漁船・第三海神丸が大ダコに襲撃され沈没した。ただ一人、生き残った男が「仲間は全員、タコに続いて海から現れたフランケン シュタインみたいな怪物に喰われた」と繰り返し、さらに、噛み砕かれ吐き出されたかのような乗組員の衣服が引き上げられたことを受け、海上保安庁はフラン ケンシュタインの研究で有名な京都のスチュワート研究所へ連絡を取った。

スチュワート博士は「研究所で育てられ、1年前に富士で死んだはずのフラ ンケンシュタインが生き返り、漁船を襲ったのではないか」との問いに「仮に生き返ったとしても海にいたり人間を喰うことはあり得ない」とし、サンダと名付 けられたこのフランケンシュタインの世話をしていた所員の戸川アケミも「サンダはおとなしく素直だった」として、これらの疑いを全面否定する。

し かし、その後も三浦半島付近では海の怪物による被害が相次ぎ、スチュワート博士とアケミはフランケンシュタインの目撃報告をもとに富士山へ、間宮博士は横須賀へ、それぞれ向かった。果たして引き上げられた漁船からは海棲生物の細胞組織が、また山中では巨大な足跡が発見された。間宮の持ち帰った細胞組織がフ ランケンシュタインのものと判明した直後、曇天の羽田空港に巨大なフランケンシュタインが現れ、女性事務員を食らう。雲間から太陽が覗くや、そのフランケンシュタインは大慌てで海へと姿を消した。

一連の事件がフランケンシュタインによるものと判明し、対策会議に出席するため上京するスチュワート博士とアケミ。博士は山と海とにそれぞれフランケンシュタインがいるのではないかと想像する。会議では強い光や火に弱い海のフランケンシュタインの性質が間宮によって指摘され、市民に灯火要請が出される。その夜、遊覧船を襲ったフランケンシュタインは、ライトを浴びせられ境川から上陸。自衛隊によって太田橋付近の谷川へと誘導され、殺人光線による細胞組織の徹底消滅を図る「L作戦」が実行される。メーサーと放電攻撃によって感電死寸前となる怪物。ところがそこに、さらに巨大なもう一匹のフランケンシュタインが現れ、自衛隊を牽制して海の怪物を連れ去った。

≪総論・見どころ≫
設定などは異なるが、前年に公開された怪獣映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(こちらも後で紹介)の姉妹編、日米合作の特撮映画で、ホラー映画(あるいはSF映画)や小説として超有名な「フランケンシュタイン」を特撮映画に持ち込んだ意欲作。今年公開されたハリウッド版特撮映画「パシフィック・リム」の監督ギレルモ・デル・トロ氏もお気に入りの一品である本作が他の怪獣映画に比べ最も異質に映る点は、 「人間の姿をした巨大怪獣同士が争う」という点で、ごみごみした着ぐるみを着た怪獣同士のずんぐりむっくりした闘いには見られない柔軟性とスピードに富んだアクションには一見の価値がある。

本作において特にリアリティを感じる要素を挙げるとするならば、「自衛隊の本気」「怪獣による人間の捕食」の2点である。まず前者であるが、今作はフランケンシュタインVSフランケンシュタインVS自衛隊といいくらい、怪獣同士の争いの中で人間が被害者としてではなく同じリングに立つものとしてフィーチャーされている。上述の「ゴジラ」で言及 した等身大の人間ドラマは比較的少ないが、一方で本作において人間はただただ蹂躙される立場には収まらず、ひたすらプロレスを続ける怪獣同士の間に、自衛隊という人間の組織が割って入るという構図が取られる。この、自衛隊の面々が怪獣に対し徹底抗戦を取る姿が、本作においては非常に迫力たっぷりに描かれているのである。特にガイラに対するL作戦の準備シーンは見ごたえ抜群。太田橋付近の谷川において、野をかけ山をかけ、川にも飛び込みながら放電装置を設置する自衛隊員の様子はさながら実際に災害出動における作戦行動を行っているように見えた。(この自衛隊員は全て俳優を使っているそうで、実際幹部職には俳優名が当てられているのだが、ヒラの自衛隊員もそうなのかな?だとしたら本当に真に迫るすごい演技)

そしてもう一つが「人間を食べる怪獣」の描写。怪獣というのは第一には恐怖感を煽る存在でなければならないと自分は思っている。その恐怖感を煽るための要素というのが、都市部や町村の建築物の破壊だったり、人間を踏みつぶしたり焼き殺したりする様子だったりするのだが、最も強烈なのが「人を喰う」という設定であろう。実際自分より遥かに大きくて明らかに強暴そうな生物を見たら、人間はまず初めに「喰われるかもしれない」と恐怖するに違いない。本来被食者には成り得ない人間が「喰われる」という原始的恐怖を覚える存在。これもまた怪獣の魅力の一つである。怪獣映画が子供向きなものにシフトしていくにつれてこのような残虐表現はなくなっていったが、昭和初期には、本作をはじめとして「食人シーン」を含んだ怪獣映画は珍しくなかった。それらのうち、最も直截的に「人を喰う怪獣」を描いたのがこの作品におけるガイラである。何より恐ろしいことに、前述したとおりこの怪獣は人型なので、 演出の利点としていきなり走ったりなど、人間と同じような敏捷な動きが再現できるわけである。人を喰う怪獣が、ゆったりとしたスピードではなく猛ダッシュで迫ってくる・・・というのは言い様のなく恐ろしいこと。その点を効果的に演出し、怪獣の本来持つ根源的な恐怖を印象強く表現できていることが、本作品の最も特徴的な点でもあるだろう。

以下見どころ
・ガイラの羽田空港襲撃シーン
トラウマ。何が怖いって、女性を噛み千切るようにムシャムシャする食人シーンもそうだが、日光を感じ取ったガイラが一目散に海めがけて疾走して去っていくところ。自分を喰おうとしている怪獣が、こんなスピードで向かってきたら絶対逃げられないなと思う。

自衛隊によるL作戦実行シーン
後々の特撮映画において人間側の主力兵器として活躍する「メーサー殺獣光線車」の初お披露目もこのシーン。「この威力!」。メーサーからのマイクロ波の当たった樹木がなぎ倒されていくさまも、特撮技術として妙味のある演出だ。

③「ゴジラ1984)」and「ゴジラVSビオランテ(1989)」
ゴジラ(1984)
君たちは原子力発電所を襲うゴジラを見て何も感じなかったか?30年前その姿を現すまで、ゴジラは伝説の怪物だった。こうした伝説は世界中の神話に見られる。ゴジラは人類に対する滅びの警鐘だ。

ゴジラVSビオランテ
兄弟などではない。文字通りの分身だ。同じ細胞で一方は『動物』・・・ 一方は『植物』。

≪基本データ≫
ゴジラ1984
1984(昭和59)年12月15日 公開
配給:東宝
観客動員数:320万人
製作・原案:田中友幸
特別スタッフ:
竹内均東京大学名誉教授)
青木日出雄(軍事評論家)
大崎順彦(工学博士)
クライン・ユーベルシュタイン(SF作家)
田原総一朗(ジャーナリスト)
音楽:小六禮次郎
特技監督中野昭慶
監督:橋本幸治
助監督:大河原孝夫

ゴジラVSビオランテ
1989(平成元)年12月16日公開
配給:東宝
観客動員数:200万人
製作:田中友幸
ゴジラストーリー応募作品「ゴジラビオランテ」 小林晋一郎・作より
音楽:すぎやまこういち
協力:防衛庁
特技監督川北紘一
脚本・監督:大森一樹

≪ストーリー≫
ゴジラ1984
大黒島が噴火してから三ヶ月…第五八幡丸に乗っていた奥村宏は大黒島近辺で巨大な生物を目撃。巨大な生物の影響か、荒波により船は遭難する。翌日、ヨット航行をしていた新聞記者・牧吾郎は第五八幡丸を発見。中には多数のミイラ化した死体が。そして放射能の影響で巨大化したフナムシ(ショッキラ ス)に襲われる牧。間一髪のところを生存していた奥村宏に助けられる。生還した奥村は巨大生物のことを林田教授に相談する。林田教授はゴジラと確信。3ヶ 月前の大黒島の噴火によりゴジラが目覚めたのだ。パニックを防ぐため日本政府は報道封鎖。奥村も監禁される。林田教授に会った牧は研究所で奥村宏の妹、尚子に出会う。

太平洋沖にてソ連のミサイル原子力潜水艦が襲撃される。調査に向かったP3C対潜哨戒機が撮影した写真はゴジラそのものであった。緊迫するアメリカ・ソ連間を緩和するため政府はゴジラに関する報道を解禁する。厳戒態勢の中、ついにゴジラは伊浜原子力発電所の核燃料を狙い、静岡県に上陸。原子炉を襲い核燃料を吸収するゴジラ。が、突如渡り鳥とともに立ち去ってしまう。ゴジラのもつ磁性体に気づいた林田は、その帰巣本能を利用した作戦を政府に提案。合成した超音波によるゴジラ三原山へ誘導、三原山を故意に噴火させることで滅するというものだった。

一方、アメリカ、ソ連両国は戦術核によるゴジラ撃滅を要請。三田村首相は、これを拒む。両国が戦術核の使用を諦めたのも間もなく、東京湾ゴジラが出現。パニックに陥る東京。迎撃の準備をする自衛隊。そして三原山では火山噴火を誘発する準備が進められる。ついにゴジラが晴海埠頭に上陸。自衛隊の攻 撃もものともしないゴジラ。更に悪いことに、その戦闘の衝撃でソ連の衛星核ミサイルの起動スイッチが起動してしまう。

ゴジラVSビオランテ
1985 年、ゴジラ襲撃から一夜明けた新宿では、自衛隊が廃墟内の残留放射能を検査する一方、ゴジラの体の破片を回収する作業が行なわれていた。その最中、米国のバイオメジャーもG細胞の採取に成功、自衛隊に発見され銃撃戦となる。辛くも逃げ切った彼らだが、サラジア共和国のサラジア・シークレット・サービス工作 員のSSS9によって全員射殺され、G細胞も彼の手に渡る。サラジア共和国に運ばれたG細胞は、白神博士の研究室で小麦などの作物と融合させ、砂漠でも育つ植物を生む実験に使用されていた。しかし、G細胞争奪戦に敗れたバイオメジャーの策略で研究室は爆破され、白神博士はG細胞と共に最愛の娘・英理加を失う。

それから5年後、三原山内において再び活動を開始したゴジラに備え、国土庁ゴジラの体内の核物質を食べるバクテリアを利用した抗核エネル ギーバクテリア (ANEB) の必要性を強く認識したが、科学者の桐島は、それが核兵器を無力化する兵器にもなり、世界の軍事バランスを崩す引き金になるのではという危惧を抱いていた。しかし、日に日に活動を活発化させるゴジラに対抗し得るものとして、自衛隊の黒木特佐はその開発のために白神博士の協力を仰ぐ。一度は断った白神だ が、G細胞を1週間借り受けることを条件にANEB開発への協力を承諾する。

数日後、芦ノ湖に巨大なバラのような姿の怪獣が現れる。それは白神が娘の細胞を融合させたバラの命を救うために組み込んだG細胞の影響によって急激な成長を遂げた怪獣ビオランテであった。同じ頃、バイオメジャーによる、ANEBの引渡しを求める脅迫文が首相官邸に届く。応じぬ場合は三原山を爆破させゴジラを復活させるというその内容に、桐島 と自衛官の権藤は引渡しに応じるが、SSS9によりANEBは奪われ、さらに爆破された三原山からはゴジラが復活してしまう。

≪総論・見どころ≫
これらの作品は2つセットで見た方がいいだろうということで、同時に紹介する。ゴジラ1984は、ゴジラ生誕30周年を記念し、「メカゴジラの逆襲」から9年、眠りについていたゴジラの復活・完全に下火となっていた怪獣映画の隆盛を狙い、構想10年の東宝全社一大プロジェクトとして製作された。ゴジラVSビオランテはその続編であ り、一般公募作品の中からストーリーが選ばれた珍しい例でもある。これらの映画の魅力的な点については、「怖いゴジラへの原点回帰」「ゴジラ対人間の構図」「巨大生物が実際に現れた状況を想定した精確なシミュレーションによるプロット」といったポイントが挙げられる。昭和中期の作品より「子供のヒーロー」としてキャラク ター付されてきたゴジラのイメージをバッサリとリセットし、歩くだけでビルを薙ぎ倒し周囲を崩壊させ、放射熱線により近代建築を焼き払いながら有害な放射性物質をばらまく、人間にとってこの上ない脅威として映るべき大怪獣ゴジラが、第一作より長い時を経てゴジラ1984にて復活することになる。それに合わせ、ゴジラという怪獣の造形・演出もまたいわゆる「二代目ゴジラ」からは一新されたものとなった。足音は腹の底に響くような重低音、咆哮も初代ゴジラを参考に猛獣のようなうなり声が加わりおどろおどろしい。特に1984ゴジラ(84ゴジラ)の濃い造形は、人間の視点からは何を考えているのか分からない不気味な面構えも相俟って、ゴジラを人間とは相容れない化物として色濃く描写することに成功している。

さて、このような脅威的なゴジラに対し、人間側、特に政治や軍事に携わる人間がどう対応するか。この点を正確を期したシミュレーションに基づき描くことにより、2つの作品は災害パニックものとして大人の鑑賞に耐えるリアリティを提供できているのだともいえる。ゴジラ1984では、その当時の時事として米ソの外交関係が悪化した新冷戦の真っただ中であり、有名なペトロフ中佐事件 (1983)の記憶も新しい世相。このような世界情勢が映画の中で色濃く反映されており、当初ゴジラの存在を世間へ公開することを避けた日本政府が、ソ連原潜がゴジラによって撃沈されたことがトリガーとなり米ソ関係が一気に緊迫状態に陥ったのに慌てて対応を迫られるシーンや、米ソ政府が日本に対しゴジラへの戦術核の使用を容認するよう迫るシーンなどに社会派な演出が見て取れる。また、ゴジラVSビオランテでは、冷戦終結後、特撮映画製作への関与が解禁された自衛隊の全面協力を得て、実際の演習映像を交えながらゴジラに対する戦略・戦術的作戦行動がリアルに表現され、怪獣映画ファンのみならずSF・軍事などの面からも高い評価を受けた。エンドクレジットに「協力:防衛庁」って出た時のネームバリューはやはり錚々たるものがある。自衛隊その他さまざまな方面の専門家の協力を得ることで、トンデモ兵器だけではなく、実在する兵器を巧みに駆使して人間がゴジラという脅威にどう挑むか、その様子を的確にシミュレーション出来ている。また、VSビオランテでは当時の最先端科学技術であったバ イオテクノロジーを巡る政治的・倫理的問題も扱っており、そういった点からも、この2作を単純な怪獣映画ではなく、質の良い大人の鑑賞に堪える日本映画として紹介できると思う。

ゴジラをただの分けのわからない化物としてではなく、いち生物として特徴づけている(1984の帰巣本能やVSビオランテの抗核バクテリア云々の話)点も自分としては今までにない表現で面白いと感じた。

以下見どころ
ゴジラ1984
小六禮次郎氏によるオーケストレーション
ゴジラといえば伊福部昭大先生だが、伊福部昭氏以外のゴジラ音楽として、個人的に一番好きなのが本作における小六禮次郎氏の音楽。「怖いゴジラ」のイメージぴったりの、おどろおどろしくも壮大でなおかつもの悲しげなBGMは一回は聴いておくべき。

・薙ぎ払い放射熱線
怖 いゴジラを最も印象的に魅せている場面。それまではウルトラ○ンのスぺシウム光線くらいの扱いだった放射熱線が、ここにきて一気にパワーアップ。湾岸地区に設置された兵器群を自衛隊員もろとも一発で焼き払った映像は、それまでの子供の味方なゴジラに慣れていた人から見れば軽くトラウマになったことだろう。

三原山火口にゆっくり接近するゴジラ
山の上、崖の上などに視点を置き、下からせり上がるようにして歩いてくるゴジラを撮るシーンは多々あるのだが、個人的には1984のこのシーンが一番好き。本作におけるクライマックスの前振りとして、小六禮次郎氏の音楽とも合わせていい演出をしてる。

ゴジラVSビオランテ
三原山火口より復活するゴジラ
ゴジラが火山の噴火と共に出現するシーンは「対メカゴジラ」の偽ゴジラ出現シーンを除けば、このVSビオランテとVSモスラのみ(VSモスラでは海底火山に飲み込まれたゴジラマントルを泳いで(!?)噴火した富士山火口から再出現)。川北紘一監督による膨大な火薬を使った爆発演出は、1989年の映画と言えどCGでは決して真似できない迫力を出している。VSモスラはさらにそれの強化版といったところなので、こちらもこのシーンだけでもいいのでぜひ見てほしい。 

浦賀水道沖海戦
特撮映画における海上戦としてはこれがトップといっていいほどのクオリティ。東宝の誇る巨大特撮用プールにて撮影された、三原山より復活し芦ノ湖へと向かうゴジラ海上護衛艦隊+スーパーX2の海戦。はつゆき・はるな型護衛艦よりゴジラへ向け一斉射される対艦ミサイル群や立ち上る水柱、放射熱線を受け爆発炎上する護衛艦と迫力満点である。

・動く体長120m・体重20万トン
ビオランテゴジラと戦った怪獣の中でも最重の怪獣である。そんなゴジラをも凌ぐ巨体をもつビオランテであるが、植獣形態では植物でありながら「移動することが可能」で、これを設定だけでなく実際に動かして撮影したシーンがある。着ぐるみにして全高3メートルにもおよびビオランテを、操演に32本のピアノ線を使用、スタッフも20人あまり が動員されて撮影された該当シーンの迫力たるや、劇中でゴジラもたじろぐレベル。。ちなみにこれが、特技監督の川北氏の当日の思いつきで動かされることになったわけで、一番驚いたのが現場のスタッフだったとか。

④「ガメラ2~レギオン襲来~」
我が名はレギオン。我々は大勢であるが故に

≪基本データ≫
1996(平成8)年7月13日 上映
配給:東宝
観客動員数:120万人
総指揮:徳間康快
脚本:伊藤和典
音楽:大谷幸
特別協力:防衛庁
特技監督樋口真嗣
監督:金子修介

≪ストーリー≫
ギャ オスとの戦いから1年後の冬。北海道周辺に流星雨が降り注ぎ、その内の一つが支笏湖の北西約1キロ、恵庭岳近くに落下した。直ちに陸上自衛隊第11師団化 学防護小隊が出動し、さらに大宮駐屯地からも渡良瀬佑介二等陸佐や花谷一等陸尉たちが調査に派遣される。しかし、懸命の捜索にも関わらず隕石本体は発見で きなかった。一方、緑色のオーロラの調査に訪れ、偶然渡良瀬たちと出会った札幌市青少年科学館の学芸員・穂波碧は、隕石が自力で移動した可能性を示唆す る。それを裏付けるように、近郊ではビール工場のガラス瓶やNTTの光ファイバー網が消失するという怪現象が多発。そしてその発生地点は札幌市に向かい、 少しずつ移動していた。

隕石落下から5日目、ついに事件の元凶が姿を現す。札幌市営地下鉄南北線で電車がトンネル内で謎の生物に襲撃された。更にそれに呼応するかのように、高さ数十メートルの巨大な植物が地中に根を張りながらすすきののデパートを突き破り出現した。怪虫(レギオン)と植物(草体)は流星群と共に外宇宙から飛来したものであり、2つは共生関係にあるものと考えられた。群体は餌としてガラスや土などに含まれるシリコンを喰い、その分解過程で発生した大量の酸素で草体を育てる。穂波は、草体は種子を宇宙に打ち上げて繁殖するものと推測。コンピュータがシミュレー トした草体の爆発力は、札幌を壊滅させるに充分なものであった。草体の爆破準備が進む札幌に、三陸沖より浮上したガメラが飛来。ガメラはプラズマ火球で草体を粉砕した。しかしその直後、地下からおびただしい数の群体が現れ、見る見るうちにガメラを覆い尽くしていく。小さな群体の攻撃には成す術が無く、ガメ ラは退却する。その後、地下から羽を持つ巨大なレギオンが出現し、夜空に飛び去った。

解剖の結果や札幌での事件の分析などから、レギオンは電磁波によってコミュニケーションし、電磁波を発する物を自らを妨害する敵と見なして攻撃する習性を持っていると推測された。だがそれは、電磁波の過密する大都市が狙われることを示唆していた。そんな中、仙台市街地に新たな草体が出現する。札幌よりも温暖な仙台では草体の成長が速いため対応が間に合わず、種子発射は時間の問題となってしまう。全域に避難命令が発令された仙台市には、ガメラと交信した少女・草薙浅黄がスキー旅行に訪れていた。再び草体を駆逐すべく 飛来したガメラの前に巨大レギオンが出現。ガメラを上回る巨体と圧倒的な力で襲い掛かる巨大レギオンガメラは苦戦を強いられる。草体の種子発射間際に巨大レギオンは地中へと姿を消し、ガメラは満身創痍の状態でもなお草体の元へ向かう。しかし時すでに遅くガメラは発射寸前で種子を受け止めるが爆発を食い止 められず、仙台は壊滅した。ガメラも全身が焼け爛れ、死んだように動かなくなってしまう。

ガメラによって2度の種子発射に失敗したレギオンは、総力で東京を目指すことが予測された。これ以前の自衛隊災害派遣により出動していたが、日本政府は自衛隊に防衛出動を命じ、レギオンの予想進路上に防衛ラインを構築する。

≪総論・見どころ≫
リアルな怪獣映画といって真っ先に思い浮かべるのがこの映画「ガメラ2」。自分はガメラ2を「最良の怪獣映画」だと 思っている。怪獣映画の教科書といってもいいくらいである。上述したゴジラVSビオランテも、自衛隊の全面協力を得て、怪獣という災害に対し自衛隊がどのような災害出動(あるいは防衛出動)を取るかを精確なシミュレー ションに基づき描いた作品であるが、ガメラ2は更にその上を行くクオリティを誇る。ゴジラシリーズは怪獣対人間、あるいは怪獣対怪獣の闘いを迫力たっぷりに描くことには長けているのだが、実際に怪獣が現れた際、人間側がどう動くか、また一般人のケア(避難誘導やメディアを使った警戒発令など)をどうするかといった細かな描写には欠けているという一面もある。「平成ゴジラシリーズはロマン、平成ガメラシリーズはリアリティ」というコメントをどこかで見かけたことがあるが、全くその通りといえるほどに、平成ガメラシリーズ、特にこのガメラ2は「怪獣」という未曽有の災害に対するプロフェッショナルの対応、そしてそれに巻き込まれる一般人の様子を正確に演出することに長けている。本作の敵怪獣であるレギオンが冒頭すすきのに営巣した際のパニック描写、次に仙台にて営巣が確認された際の迅速な避難警報の発令、そして仙台壊滅後、レギオンの東京進出を阻止するための自衛隊出動要請の閣議決定発表など、本当に細かなところまで「実際に”こういうこと”が起こったら”どう”なるのか」が忠実にシミュレートされている。本編の主人公の一人として、陸上自衛隊大宮駐屯地の渡良瀬佑介二等陸佐を物語の中心に据えているというのもポイント。

また、敵怪獣であるレギオンの設定も非常に凝っている。レギオンの生態はハキリアリやハチ といった社会性昆虫をモチーフとされているが、攻撃性の高いレギオンが最初にビール工場、そして敵性音波に対抗すべくすすきのの地下に侵攻、より暖かな環境を求めて仙台・東京へと進撃していくさまは、レギオンという「生物」を生態学的な見地からこと細かく表現し、オーディエンスに怪獣という「生物」を現実的な視点から理解させ、より映画にリアリティを持たせることに腐心した結果であるといえるだろう。人間からの一切のコミュニケーションを拒否する未知なる生物、それらが群体をなし、なおかつ戦略的・戦術的に迫ってくるという設定は古今東西の怪獣映画では珍しく、どちらかといえばSFやファンタジーに多いだろう。レギオンはそういった意味で幅広いジャンルにおいても非常に良く設定が練りこまれたといえる存在であろう。何よりこのレギオン、超カッコいい!マザーレギオンのどこか幾何学的で無機質・金属的なデザインはこれまでの怪獣とは一線を画すデザインであり、その強さもまた、歴代の怪獣の中でもトップクラスの実力を誇っている。自分の一番好きな怪獣でもあるので、ぜひ一度見てほしいと思う。

また、ガメラ2に関わらず、平成ガメラシリーズでは自衛隊がとても強い。ゴジラシリーズでは完全なやられ役・かませ役として扱われる一般兵器群も、ガメラシリーズでは大活躍を見せる(決して怪獣側が弱いというわけでなく)。カッコいい自衛隊・兵器が観たいという人には、ゴジラシリーズよりもガメラシリーズの方をお勧めする。

以下みどころ
・オープニング
「隕石落下地点は、支笏湖の南西約1キロの地点!化防小隊に出動要請!」からの自衛隊真駒内駐屯地出動シーンは武者震いするほどカッコいい。

・足利最終防衛線構築
ス タッフインタビューによれば監督の金子修介氏は、幼少時反戦・反自衛隊主義の家庭で育ったそうだが、(勿論氏の現在の思想について悪意をもって何かを述べているわけではないが)そのような経歴の人が、こういう風に戦車の出動シーンを迫力たっぷりに描写できるのだなあと感銘を受けた。戦時における大空襲を経験したことを伺わせる消防隊のおっちゃんの名言など、このシーンではレギオンとの最終決戦に挑む人々の命がけの覚悟がよく描かれてもいる。

マイクロ波ウェーブによる薙ぎ払い&着地とスライディングに並行した3連樋口撃ち
平成ガメラシリーズで特技監督を担った樋口監督は、爆発による炎の演出などに絶大な評価があり、平成ゴジラシリーズにおける川北監督の金粉まみれ火薬まみれのド派手演出や、昭和後期ゴジラシリーズにおける中野爆発(後述)とはまた違った魅力がある。それがよく分かるのが、レギオンが戦車隊の50%をマイ クロ波ウェーブで一気に薙ぎ払った時の爆発演出。また、俗に「樋口撃ち」と呼ばれるガメラのプラズマ火球3連発については、前作の「大怪獣空中決戦」からさらにパワーアップし演出が見られる。レギオンに奇襲したガメラがスライディング着地をかましながら流れるように3連発。男の夢である。

・「5体に1体はラインを突破。最終防衛ラインに向けて飛行中!」
強い(確信)な自衛隊のシーン。いやあの大編隊相手に高射砲で5体に4体落としてるのが凄いでしょ。ちなみに映像ではどう考えても弾幕が薄すぎるように見えるがあれは4~5発に1発間隔で混ぜてある曳光弾なので実際の弾数はもっと多いはず。このシーンはガメラ復活→レギオンとのリベンジ戦開幕につながる部分なので、自衛隊の徹底抗戦の構えも見られることでさらにテンションあがるシーンである。

今回は項目【特撮技術】について

【特撮技術】

空の大怪獣ラドン(1956)
「こちら北原。国籍不明の一機、福岡方面に向かって飛行中。高度2万。進路北北西、超音速!」
「何?音速を超えている!?」

≪基本データ≫
1956(昭和31)年12月26日上映
配給:東宝
製作:田中友幸 
音楽:伊福部昭 
特技監督円谷英二 
監督:本多猪四郎
原作:黑沼健 

≪ストーリー≫
炭鉱技師の河村繁は阿蘇付近の炭鉱に勤務していた。ある日、坑道内で原因不明の出水事故が発生。それに続いて炭鉱夫らが水中に引き込まれ、惨殺死体となって発見される殺人事件が相次ぐ。当初は河村の友人で行方不明の炭鉱夫、五郎が犯人と目されていたが、まるで日本刀で斬られたかのような被害者の傷口に警察も頭を悩ますばかりだった。やがて出現した真犯人は、体長2メートルを超える巨大な古代トンボの幼虫・メガヌロンだった。村に出現したメガヌロンに警官のピストルでは歯が立たず、河村は警察が要請した自衛隊と共にメガヌロンが逃げ込んだ坑道に入る。機関銃によって一旦は怪物を追い詰めるが、発砲の衝撃で落盤が発生、巻き込まれた河村は坑道内に姿を消してしまう。
やがて阿蘇では地震が発生、阿蘇山噴火の前兆かと付近一帯は騒然となる。だが、地震によって出来た陥没口で調査団が発見したものは、落盤事故から奇跡的に生還したものの、記憶喪失となっていた河村であった。時を同じくして、航空自衛隊司令部に国籍不明の超音速飛行物体が報告された。確認に向かった自衛隊の戦闘機を叩き落とした飛行物体は、さらに東アジア各地にも出現、各国の航空業界を混乱に陥れていた。一方、阿蘇高原では家畜の失踪が相次ぎ、散策していたカップルが行方不明になる事件が起きた。若い恋人の心中かと思われていたが、彼らが残したカメラのフィルムには、鳥の翼のような謎の影が映っていた。
入院していた河村の記憶は戻らないままだったが、恋人キヨの飼っていた文鳥の卵の孵化(ふか)を見たことをきっかけに、失われていた恐ろしい記憶が甦る。落盤で坑道の奥に閉じ込められた彼が見たものは、地底の大空洞で卵から孵化し、メガヌロンをついばむ巨大な生物だった。柏木久一郎博士の調査団に同行して阿蘇に赴いた河村の眼前で、古代翼竜の大怪獣ラドンがはばたいた。

≪総論・見どころ≫
東宝初のカラー怪獣映画。原作者の黒沼健は日本におけるオカルト・ライターの草分けでもあり、本作でも自衛隊機が国籍不明機を追跡する場面では米国の有名なUFO事件のマンテル大尉事件がヒントにされている。原作者がオカルトライターということもあって、この「空の大怪獣ラドン」は他の怪獣映画と比べて最もホラーテイストの強い作品である。メインタイトルから、伊福部昭のおどろおどろしい音楽とともに始まるこの映画では、かの有名な「ゴジラ」のように主役怪獣であるラドンが物語の1/3ほどが進むまで中々現れない。その代わりに物語の序盤ではラドンの餌となる巨大昆虫「メガヌロン」と人間のやりとりが描かれることになるが、このメガヌロンパートが本当に怖い。ラドンの餌といってもこのメガヌロンは人間の二回り以上も大きいわけで、こいつが炭鉱で働く人間を次々と惨殺していく過程は、これまたかの有名な洋画「エイリアン」に似たものを感じさせる。水没した炭鉱では水中にひそみ何処にいるともわからないメガヌロンが「きゅるきゅるきゅる」という独特の活動音とともに人間に迫り獲物を静かに引きずり込む、かと思えば民家襲撃シーンでは主人公の前にいきなりメガヌロンが突然ぬっと現れ、銃撃をものともせず警備隊の数名を掻っ捌いて殺害していくのである。まるで映画の前座には見えない、「大昆虫メガヌロン」でもいいんじゃないかと思うような作りこみである。また、主役怪獣であるラドンの登場についてもかなり引っ張った演出がなされている。空自哨戒機をソニックブームで真っ二つにしたり阿蘇山で写真撮影中のアベックを捕食したりしながらもラドンは人間側に決定的な全容を中々みせず、こういった焦らしが「メガヌロンとは別の、もっと巨大な何かがいる」という不気味な予感を助長させることに成功しているといえよう。
さて、それらの経緯を経ていざ大怪獣ラドンが現れた後は、この映画の主な見どころである「円谷英二氏によるハイクオリティな特撮シーン」の出番。「ラドン」における特撮技術の特徴的なポイントは、優れたピアノ線技術によるラドン・ミニチュア戦闘機の操演と、精巧なジオラマセットによる佐世保西海橋および福岡市天神区の再現とその破壊シーンである。前者のピアノ線操作では特に真昼の青空を背景にしてピアノ線で操作されたミニチュア機からロケット弾を発射する「ミニチュアを飛ばしながら発砲させる」という表現、西海橋下の渦潮からラドンが飛翔するシーンや岩田屋屋上にとまっていたラドンが飛び立つ(飛び降りる?)シーンでの着ぐるみごとスーツアクターをピアノ線で吊り下げる危険なワイヤーアクションなどが特徴的。後者についてはラドンが衝撃波で西海橋を叩き折るシーンやラドンの羽ばたきによる風圧で天神区の建物が吹っ飛び崩壊するシーンが迫力があり見ごたえがある。特に天神区におちたラドンと戦車隊との戦闘では民家の瓦一枚一枚が丁寧に作られており、それらが風圧により吹っ飛ぶという精巧な破壊描写が再現できている。また風圧で電柱が倒れるシーンでは漏電により青白い火花が飛び散るなど、本当に細かいところまで描いている。このような特撮技術が後の特撮怪獣映画にも大きな影響を及ぼしたことを考えると、その先駆けとなった「ラドン」は是非観ておくべきだろう。ちなみに西海橋は前年完成したばかりで、この映画の公開後西海橋阿蘇山を訪れる観光客は明瞭に増え、以後の怪獣映画のロケ地として完成間もない注目の新ランドマークが宣伝も兼ねて怪獣に破壊される伝統の先駆けとなった。

以下見どころ
ラドン追跡シーンとF-86Fセイバーとラドンとのドッグファイト
特技監督円谷英二氏はもともとはパイロットだったということもあり、空を飛ぶ大怪獣ラドンとF-86Fジェット戦闘機との戦闘シーンは1956年当時の特撮技術と今を比較しても古臭さを感じさせないほど躍動感ある仕上がりとなっている。これは上述した見事なピアノ線操演によるものであるが、その一方、当時の特撮技術にも勿論限界はあったわけで、その辺を如何に補ってダイナミックな「空戦」を演出するかという工夫も随所に見て取れる。特徴的なのは、物語中盤、空自の哨戒機が謎の飛行物体(=ラドン)を追跡する、というシーンだろう。この時点ではラドンはその実態を見せていないため、正体不明の巨大な飛行物体と空自戦闘機とのチェイスをいかように表現するかには、相当試行錯誤がなされたのではないかと思う。自衛隊機とラドンがそれぞれ出す飛行機雲を中心として描かれた該当シーンでは、特撮技術だけでなく、伊福部昭の(序盤のホラーテイストとは一転した)アップテンポな楽曲と、自衛隊員の印象的な台詞回しとで盛り上げられている。

・ラストシーン、阿蘇山噴火
阿蘇山噴火のシーンではミニチュアセットの上で溶けた鉄を流すという現代の特撮ではおよそ実現できないであろう演出がなされている。そのせいで特撮スタジオは大変な暑さとなり、今でも語り草となっているあるラストシーンの原因となるわけであるが、これについてはここで文字におこすよりは興味ある人には詳細をぜひ映像で見てほしいと思う。


フランケンシュタイン対地底怪獣(1965)
フランケンシュタインは死んだのかしら」
「いや、彼は永遠の生命を持ってる。いつかはどこかに出てくると思う…」

≪基本データ≫
1965(昭和40)年8月8日上映
英語タイトル:FRANKENSTEIN CONQUERS THE WORLD
配給:東宝
製作:田中友幸 
音楽:伊福部昭
撮影:有川貞昌
監督助手:中野昭慶
特技監督円谷英二 
監督:本多猪四郎 

≪ストーリー≫
第2次世界大戦末期、陥落寸前のドイツベルリンのリーゼンドルフ博士の研究室から、ナチによってはるばる日本に「あるもの」が運ばれ、Uボートを犠牲にしてまで広島の「広島衛戍病院」に移送された。いぶかる移送責任者の河井大尉の質問に対し、軍医長はそれが「フランケンシュタイン博士の創造した不死の心臓である」と説明する。しかしそれは直後に米軍によって投下された原子爆弾の爆発で消滅したかと思われた。
それから時は流れ、15年後の1960年。広島県のある住宅の飼い犬が何者かによって殺害され、ある小学校で兎のバラバラ死体が発見される事件が発生。また、激しく雨が降る晩、謎の浮浪児がタクシーに轢き逃げされた。数日後、宮島周辺に徘徊していたこの浮浪児が、「国際放射線医学研究所」のボーエン博士と助手の戸上季子(すえこ)達に保護された。少年は白人種であり、短期の内に急成長して20メートルに及ぶ巨人となっていく。その知能は低く、行動に予測がつかないため始末に困ったボーエンらは鉄格子付きの特別室で彼の手首を鎖でつなぎ、「飼育」することとなる。季子は彼を「坊や」と呼んで愛情を寄せるのだった。
時同じくして、秋田の油田を襲った地震の最中、巨大な怪獣らしきものが目撃される。中生代の終わりに地下にもぐって大絶滅を切り抜けた恐竜バラナスドラゴン=バラゴンであった。現在は秋田油田で技師を務めており、この場に居合わせていた河井は、国際放射線医学研究所のニュースを聞いて、巨人が敗戦直前に日本に運ばれたもの、すなわち、「フランケンシュタイン」の不死の心臓が人間の形を取ったものではないかとの思いを強める。
やがて巨人成長したフランケンシュタインはマスコミの格好の題材となり、取材が殺到することとなる。ドイツから帰国した川地は「坊や」の手を切り落とすことを決意、独り特別室へと向かう。しかし、檻の前では「興奮するから光をあてないで」との川地の指示を無視して、テレビスタッフが横暴にも照明を向けてしまった。ついに暴れ出して研究所を脱走すフランケンシュタイン
脱走した彼は、闇にまぎれて広島から岡山、姫路、琵琶湖を経て東走、ついに故郷ドイツに気候の近い、日本アルプス周辺へと北上する。同じくしてバラゴンが白根山近辺で起こしている謎の災害と人間消失に、世間はフランケンシュタインが人間を襲い、喰っているのではないかと疑い始める。こうして自衛隊の出動などの強硬策が実施され、ついに石切現場でフランケンシュタインを発見、政府は一連の事件がフランケンシュタインの仕業であると断定、これを葬り去ることを決議する。

≪総論・見どころ≫
フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)は、東宝が海外資本との提携によって怪獣映画の新機軸を模索した意欲作で、怪獣映画としては初めての日米合作である。この作品の良さとして一つには、本多監督による、1931年版『フランケンシュタイン』をもととしたシリアス路線なストーリー・本編演出が挙げられる。「人間のようで人間でないもの」として生まれたフランケンシュタインそれ自身の悲哀や否応なく生じる周囲との軋轢、そして人間に育てられたゆえのフランケンシュタインの「人間臭さ」(例えば猪を落とし穴でとらえようとするシーンなどにそれが良く表れている)など、フランケンシュタインという人型の化物を主役に据えることで、他の怪獣映画にはないドラマ性がこの映画には込められている。
が、この映画で最も注目するべきものは他にある。それが、「円谷英二のミニチュアワークに対するこだわり」である。「ゴジラの逆襲」「ラドン」「モスラ」での大都市をターゲットとしたジオラマセットなど、他作品でもその技術の精巧さを窺い知ることが出来る円谷監督のミニチュアワークスであるが、この映画では登場する怪獣のサイズがゴジラの半分近い20メートル前後の設定にされていたこともあり、ミニチュアの縮尺も1/6、1/15(ゴジラ映画などでは1/25)で作られ、細部まで拘った非常にリアリティーのあるミニチュアセットが構築されている。見どころにもあげるが、特にそれが顕著に表れており、自分が「円谷監督って凄いなあ」と感じたのは、地底怪獣バラゴンによる白根ヒュッテ襲撃シーンである。崖に穴をあけ出現し、ヒュッテの数々に突撃し蹂躙するバラゴンの恐怖は、合成技術による襲われる人間との対比も手伝い、まるで本物の家屋が20m級の巨大生物によって破壊されているような印象を受けた。特撮映画は数多くあれど、ミニチュアワークの精巧さに感激したのはこの白根ヒュッテ襲撃シーンを除けばVSキングギドラの新宿高層ビル群・VSデストロイア有明臨海副都心ガメラ3の京都駅くらいだろう。蹂躙後のヒュッテの全景でも、バラゴンが抜け出してきて崖にぽっかりと空いた大きな穴を残しておくなど、芸が細かい。
また、ミニチュアの精巧さ以外にも、「ミニチュアを使って映像表現をする」ということにも細かなこだわりを見ることが出来る。フランケンシュタインの狩りの対象となる野生のイノシシや、バラゴンに襲われる馬などは、この映画ではわざわざミニチュアが作られているのである。観る人によっては安っぽい幼稚な表現に見えるかもしれないが、「こういうのはミニチュアでやったほうがいいんだ」という円谷氏の言葉もあるように、実写合成を使った映像表現とは異なる「味」を感じられるシーンである。

以下見どころ
・冒頭のドイツ空襲、Uボート、バラゴンによる白根山のヒュッテ襲撃
円谷英二氏によるミニチュアワークスの真髄

・動く「切り離されたフランケンシュタインの手」
これもミニチュアワークスのこだわりの一環として生み出されたものか。子供の時見たときは自分の幼さもあり、人工物とはいえモゾモゾと動く巨大な手に軽くトラウマを覚えたものである。

自衛隊に追われながらも晩御飯のイノシシを落とし穴でとらえようとするフランケンシュタイン
本作の癒しシーンと思ってたら・・・アッー

・異なる2つのエンディング
実はこの映画、米国公開版と国内公開版ではエンディングが異なる。どちらもストーリーとしては大きな違いがないものの、特に米国公開版のエンディングはそれまでの展開から何の脈略も無く出現する”アイツ”のおかげで(?)いい意味でも悪い意味でもインパクトのあるラストになっている。ちなみに国内版しか知らなかった自分はフランケンシュタインの紹介画像になんで”こいつ”がいるんだろうといつも疑問に思ったが、それが明らかとなった問題のラストシーンでは正直目が点になってしまった。だってフランケンシュタインとバラゴンが闘ってたのは富士山の裾野なんだよ??


ゴジラ対メカゴジラ(1974)
ゴジラめ、メカゴジラがお前と同じ性能だと思ったら大間違いだぞ!」
≪基本データ≫
1974(昭和49)年3月21日 上映
配給:東宝
観客動員数:133万人
製作:田中友幸 
音楽:佐藤勝 
監督助手:川北紘一 
特技監督中野昭慶 
監督:福田純 

≪ストーリー≫
沖縄海洋博会場建設技師の清水敬介は、弟・正彦と安豆味城跡を訪れる。そこで観光客を相手に伝統歌謡・仲里節を実演していた国頭那美(くにがみ なみ)は、怪獣が街を焼き払う啓示を受けて倒れた。続いて沖縄玉泉洞を訪ねた正彦は、洞内で不思議な金属を発見する。一方、会場予定地の建設現場で、壁画が描かれた洞穴が発見された。首里大学の考古学者・金城冴子(かなぐすく さえこ)は、壁画から「大空に黒い山が現れる時、大いなる怪獣が現れ、この世を滅ぼさんとする。しかし赤い月が沈み、西から日が昇る時、2頭の怪獣が現れ人々を救う」という予言を読み解いた。冴子は敬介とこの洞穴内に安置されていたシーサーの置物を携えて東京へ飛び、冴子の叔父である城北大学の考古学の権威・和倉博士の元を訪れるが、その途中、飛行機内で「黒い山のような雲」を目撃する。その頃、正彦は玉泉洞で拾った金属片を物理学の権威である宮島博士の元へ持ち込む。宮島博士はこれを地球上に存在しない宇宙金属・スペース・チタニウムであると断定した。
時を同じくして、富士山が噴火して巨大な岩石が飛び出し、その中からゴジラが出現。しかし鳴き声が違う上に、盟友であるはずのアンギラスを攻撃して撃退してしまう。
ゴジラ東京湾で石油コンビナートを襲撃し、黄色い放射火炎を吐いてコンビナート地帯を破壊する。このときゴジラの前に、工場の建物の中からもう1頭のゴジラが出現した。敬介たちの目の前で、激しい激突の中、先に現れたゴジラの皮膚が破けて下から金属部分が露出した。宮島博士はこれを見て、これが全身宇宙金属でできたサイボーグ、メカゴジラであると看破した。見る間に「にせゴジラ」の皮膚は燃え落ち、全身白銀色に光り輝くロボット怪獣メカゴジラが現れた。

≪総論・見どころなど≫
『中野爆発』。この映画を語るにおいてこれ以外の単語は必要ないと言っても過言ではない。有名作「日本沈没」をはじめとし、火薬を多様・多量に用いた過激ともいえる(少なくとも現代においてはあのような爆破シーンは撮影不可だろう)爆発シーンから「爆破の中野」という異名でも呼ばれる中野昭慶3代目東宝特技監督の演出は、特撮映画好きならばぜひ見ておくべき。メカゴジラ出現シーンでの火山の爆発、東京湾石油コンビナートでのゴジラ対メカゴジラの第一回戦。沖縄でのキングシーサー(別名かませ犬)も交えた決戦など、怪獣が暴れるところにこれでもかこれでもか火薬を使い大爆発を起こしている。スタジオが火事になったほどだというのだから、当時の撮影状況は凄まじい様相を呈していたに違いないだろう。また、自身で「シネマスコープ大好きおじさん」と称するだけあって、中野監督はシネマスコープ画面アスペクト比12:5、アナモルフィック・レンズを使用して左右を圧縮し1.37:1の横縦比でフィルムに記録する技法)での映像の見せ方にもこだわりをもっている。キングシーサーゴジラの2体に挟み撃ちされたメカゴジラが、首を180度反転させ、正対するゴジラにはミサイル攻撃、背後のキングシーサーには目からのスペースビームを撃ちそれぞれを一掃するシーンは、シネマスコープならではの構図に中野爆発が合わさり、見ごたえがある。
昭和後期におけるゴジラ映画はストーリーや演出等に迷走が見られ、映画としてみると評価の低いものが多く、この「ゴジラ対メカゴジラ」でも劇中に突然5分ほど歌謡ショウ(比喩)が挟まれてしまったりとチャチな演出はいくつかあるものの、メカゴジラという100%サイボーグの異色な怪獣との闘争をド派手な爆発によって迫力たっぷりに演出したという点において、この映画は後に続く平成ゴジラシリーズにも劣らないスペックを持っている。また、この映画とその続編ある「メカゴジラの逆襲」ではサスペンス性を重視した大人向けのシリアスなシナリオも用意されており、迷走気味であった昭和後期ゴジラ映画の中では比較的大人向けに路線変更され製作されていると思う。

以下みどころ
・石油コンビナート破壊シーン
シネマスコープのパノラマに色とりどりの爆炎が巻き上がり、轟音が轟く。その中で闘う2体のゴジラ。ここでの爆発演出にはCGには出せない特撮映画の”味”がある。

・元祖『オールウェポン』
ゴジラキングシーサーにとどめを刺すため、目・口・両腕部・両脚部よりビームやミサイルをとんでもない密度で繰り出すメカゴジラ。佐藤勝の軽快な音楽とともに、これでもかこれでもかと火薬を多用し煌びやかなセルフ弾幕が展開されるこのシーンを見れば、メカゴジラこそが古今東西実写アニメを含め「オールウェポン」という概念を体現した元祖であると言うにふさわしい存在であることが分かるだろう。


ガメラ~大怪獣空中決戦~(1995)、ガメラ3~邪神覚醒~(1999)

最後の希望・ガメラ、時の揺りかごに託す。災いの影・ギャオスと共に目覚めん。

わたしは、ガメラを許さない

≪基本データ≫
ガメラ~大怪獣空中決戦~
1995(平成7)年3月11日 上映
配給:東宝
観客動員数:80万人

総指揮:徳間康快 
製作代表:加藤博之、漆戸靖治、大野茂 
製作:池田哲也、萩原敏雄、澤田初日子
脚本:伊藤和典 
音楽:大谷幸 
特別協力
防衛庁
海上保安庁

特技監督樋口真嗣 
監督:金子修介 
製作:大映

ガメラ3~邪神覚醒~
1999(平成11)年3月6日 上映
配給:東宝
観客動員数:100万人

総指揮:徳間康快 
製作代表:加藤博之、石川一彦、小野清司、鶴田尚正 
脚本:伊藤和典金子修介
音楽:大谷幸 
特別協力
防衛庁
JR西日本
京都駅ビル開発 

特技監督樋口真嗣 
監督:金子修介 
製作:大映

≪ストーリー≫
ガメラ~大怪獣空中決戦~
太平洋上に謎の巨大漂流環礁が発見された。その環礁は黒潮の流れに乗って、だんだん日本に近づいているという。保険会社の草薙と海上保安庁の米森は環礁の調査に乗り出し、環礁の上で不思議な石版と大量の勾玉を発見する。さらに、この環礁が生物であるということが明らかになる。
同じ頃、九州の五島列島姫神島で、島民が「鳥!」という無線を最後に消息を絶つという事件が発生。調査に呼ばれた鳥類学者の長峰はそこで、島民を喰らった巨大な怪鳥を発見する。
政府は貴重な生物であるとして怪鳥の捕獲を決定し、福岡ドームに怪鳥を誘い込む作戦を決行する。その時、博多湾にあの環礁=巨大生物が上陸。怪鳥の1匹を倒し、周りの建物を破壊しながら、ドームに向かって行く。予期せぬ事態に周囲は大混乱に陥り、その隙を突いた怪鳥は自らを閉じ込めていた鉄格子を強力な光線で切断して脱出する。巨大生物も円盤のような姿となって、怪鳥を追って飛び去っていった。

ガメラ3~邪神覚醒~
ギャオスとの戦いから4年、レギオンとの戦い(ガメラ2)から3年後の1999年。ガメラがレギオンを倒すために地球の生態系を循環する生命エネルギー「マナ」を大量に消費したことで地球環境のバランスが大きく崩れ、人間を捕食する殺戮生命体ギャオスが世界各地で大量発生し世界規模で急速に被害が拡大していた。
4年前の東京でのガメラとギャオスの戦いの巻き添えで両親を失った比良坂綾奈と弟の悟は、奈良県高市郡南明日香村(架空の地名)に住む親戚の日野原家に引き取られていた。綾奈の心は両親の仇ガメラへの激しい憎悪の念に満ちていた。ある日、綾奈は悟をよそ者扱いをしていじめる同級生の3人組を止めるため、守部家の敷地内の沢に在る古くから「柳星張(りゅうせいちょう)」が眠ると伝えられている祠の奥にある洞窟へ、度胸試しのごとく言われるがままに入り込み、その中で奇妙な卵状の物体を見つける。
ある週末の夜、東京渋谷上空に2体のギャオスが飛来、それを追ってきたガメラとの壮絶な市街戦が展開される。ガメラがギャオスを撃破し戦いは終結するが、戦場となった渋谷はプラズマ火球により甚大な被害を受け、1万人を超える犠牲者が出てしまう。これを機に日本政府及び世論はギャオス以上にガメラを危険視する方向にシフトしていく。そして、ニュースで壊滅した渋谷から飛び去るガメラを見た綾奈は改めてガメラへの憎悪を強くする。
ガメラが渋谷でギャオスを爆殺した同時刻、その断末魔の叫びに応えるかの様に綾奈が洞窟で見つけた卵状の物体から奇妙な生物が生まれた。綾奈はその生物にかつて飼っていた愛猫の名前である「イリス」という名前を付け、いつか両親の仇ガメラを殺してくれることを願って密かに育て始める。だが、イリスは守部家に代々伝えられる「復活すればこの世は滅びる」と恐れられる災厄だった。綾奈の憎悪を糧に急速に成長したイリスは綾奈を繭に自身ごと包み込む。直後に駆けつけた守部家の長男・龍成が救出するものの綾奈は意識不明になり、イリスも姿を消した。

≪総論・見どころ≫
「特撮技術」の項目について、最後に紹介するのが平成ガメラシリーズの第1作と第3作、ガメラ~大怪獣空中決戦~とガメラ3~邪神覚醒~である。本当は第2作であるガメラ2~レギオン襲来~と合わせて紹介するべきだと思うが、ガメラ2のリアリティの高さ故、あちらは別枠で先に紹介することとなった。金子修介監督によるこれら一連の三部作は「平成ガメラシリーズ」と呼ばれるが、いずれの作品も質の良い特撮シーンを提供しており、本格的怪獣映画としての評価が非常に高い。これらの特撮シーンは、1日におよそ2カットという超スローペースで撮影が行われたらしく、本当に細かな部分まで計算され大事に大事に撮られたであろう各シーンには、ほかの怪獣映画に少なからず見られる「甘さ」(特に実写合成技術に関して)は全くない。ある意味安心して視聴することができる映画である、といってもいいだろう。先に紹介した「ゴジラ対メカゴジラ」や「平成ゴジラシリーズ」に特徴的な派手な演出はあまりなく、怪獣の重量感の演出といって点ではゴジラシリーズに引けを取る面はあるものの、特撮の精巧さでは平成ガメラシリーズは全ての特撮怪獣映画の中で一歩抜きん出ていると評価することができるだろう。

平成ガメラシリーズはそもそも、「王道の怪獣映画を作りたい」というモチベーションのもとで製作された映画である。その意気込みはやはりシリーズ第1作目であるガメラ~大怪獣空中決戦~において最も強く感じ取ることができる。特に「樋口組」と呼ばれる特撮班の、「これまでの怪獣映画で不満に思っていたことを、このガメラで徹底的にぶちまけてやろう」という熱意は並々ならぬものがあったようで、撮影シーンの随所に様々な技術的工夫とともにそれが強く込められている。例として一つ挙げるならば、怪獣を映す際のカメラの角度。怪獣を映すのだからそれは人間の視点(見上げるような角度)を用いるべきで、あまりに高い角度からの視点ばかりでは怪獣のもつ迫力がなくなってしまう。本作では多くのカットで人間の目から見た視点で怪獣が撮られ、視点の統一が徹底されている。このように、特撮シーンの1カット1カットごとに「怪獣の映画を撮るとはどういうことか」という命題に沿った工夫がなされている。

また、多くの特撮怪獣映画、特に良く比較対象として挙げられる平成ゴジラVSシリーズと比べて圧倒的にガメラシリーズが優っているといえるのが、実写合成技術及び最新鋭のデジタル合成技術の運用である。オプチカル合成が主に使用されていた1作目から4年間を経て、最終作ガメラ3では最新鋭のCG技術・実写合成技術が惜しみなく投入され、従来の怪獣映画とは臨場感という面で一線を画す視覚効果を演出することに成功している。平成ガメラシリーズが製作された時期は、こういった映像技術の革新的進歩とちょうど重なった時期でもあり、ガメラシリーズは映像技術の発展とともに進化してきた作品であるともいえる。ガメラ3はその進化の極致であり、その映像技術は特撮怪獣映画の最高峰といっても過言ではない。むしろ、個人的には現在まで含めたあらゆる日本映画の中でもトップクラスに位置すると思っているくらいである。それが良くわかるのが、ガメラ3冒頭の渋谷襲撃シーンと、紀伊半島沖での自衛隊F-15、イリス、ガメラの空戦シーンであり、いまだにこれらのシーンを超えるものを邦画では僕は見たことがない。渋谷襲撃シーンでは本編実写との「境目」を見せない巧みな合成によって「怪獣が突如市街地に現れ蹂躙する」という展開をリアリティたっぷりに、まるで本当に100m近い巨大生物が暴れているかのように魅せている。また、紀伊半島沖の空戦シーンではガメラやイリスのアクションにCGを多用することで、スピーディな空中戦闘をハイクオリティに映像化した。かといってCG技術に頼りすぎた「安っぽい映像」になることも勿論なく、最終戦での京都の古都の街並みや京都駅のように精巧なミニチュアセットを組み、その中で着ぐるみの怪獣を使った撮影を行うという日本特撮怪獣映画の伝統的な手法に、最新の映像技術を効率的に組み込んでいるのが、このガメラ3の特撮シーンを最高レベルに引き上げている所以である。

ガメラシリーズ通しての唯一の欠点であるが)、人間側の役者の演技がかなり棒で残念なところもあるが、それを差し引いてあまりあるほどの魅力を平成ガメラシリーズは備えている。最高レベルの特撮技術、迫力満点でカッコいい怪獣の演出、など、技術という面において特撮怪獣映画はここまでやれるのだ、ということをこのガメラシリーズを通して感じてもらえればと思う。

以下見どころ
ガメラ~大怪獣空中決戦~、夕焼けに映える東京タワーとギャオス
折れた東京タワーに巣作りをするギャオス、襲撃を受けた首都東京の全景と美麗な夕焼け空とのコントラスト。特撮班のスタッフが猛暑の中一日中タイミングを待って撮影されたという該当シーンは、特撮映画の中でも1,2を争う美しさである。

ガメラ3、渋谷襲撃シーンと紀伊半島沖空中戦
最高レベルの特撮技術を携え、「怪獣がいきなり人間の住む市街地に現れ、周囲一体を火の海と化し、人々を焼き払う」という怪獣映画のタブーへと挑戦した渋谷襲撃シーン。そして、月明かり映える雲海において繰り広げられる二大怪獣の空中戦。細かい説明は不要でとにかく見てほしい。特撮映画の最高峰がここにある。

 

さて、概論の最後は特撮怪獣映画の【ロマン】について。といっても、ロマン性なんて概念は人それぞれであるべきで、それを一般化しようなんてことは思っていない。ので、ここでいうロマンというのは、自分にとって、怪獣映画の魅力の根幹をなす要素は何なのか、という、いわば自分が特撮怪獣映画に求める一番重要なテーマ、といって差し支えない。勿論、特撮技術が優れているとか、ストーリーが如何にリアリティを伴っているかとか、今まで論じてきたファクターもとても重要なのだが、幼少時代からずっと自分が怪獣映画に魅力を感じてきた由来は根本的にはそこら辺にはない。自分にとって一番魅力に感じることは、

「【怪獣】という巨大な生き物が【生きている】」

ということである。

勿論今はある程度精神的に成長したから、怪獣という存在は現実にはおらず、人間の妄想が生んだもので、画面に映っているモノの中にはちゃんと人が入っていて動かしているんだというのは分かっているけれど、リアルタイムで怪獣映画を見ていた頃はそんなことは思いもしなかった。思い起こせば懐かしいが、ウルトラマンパワードレッドキング♀が崖から転落死した描写を見てマジ泣きしカーチャソに窘められていた時分である。然れば、自分にとって怪獣映画が最も魅力的に映るのは、「未知の、かつ圧倒的なスペックを兼ね備えた巨大生物が、それでも確固たるひとつの生命体として、それ自身の生存本能・生態に従い生きている」ように描写されることである。架空の、そして超常の存在である怪獣にも、現実的な「生命の本質」みたいなものがみえる、言い換えれば自分と同じ世界に生きているようにみえる、そういう風にみえるよう、大の大人が一所懸命汗水流して作った怪獣映画が自分は大好きである。

先に挙げた作品群の中にもそういう意味での「ロマン」を兼ね備えた作品は多くあるものの、ここではそれらと比べても特に自分が強く「怪獣の生物性」というものに感銘を受けた映画を紹介したいと思う。


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【ロマン】

「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン(1966)」
科​学​の​力​で​は​も​う​、​ど​う​に​も​な​ら​ん​
≪基本データ≫
1966(昭和41)年4月17日 上映(同時上映:大魔神(1966))
配給:大映
製作:永田雅一 
脚本:高橋二三 
音楽:木下忠司
特撮監督:湯浅憲明 
監督:田中重雄 

≪ストーリー≫
半年前に打ち上げられたZプランロケットが宇宙空間で隕石に衝突し、中に閉じ込められていたガメラが脱出。ガメラは地球へと舞い戻り、エネルギーを求めて黒部ダムを破壊した後、噴火した火山に潜伏した。

一方、大阪で航空士のライセンスを得たばかりの平田圭介は独立して観光飛行機会社を設立するための元手を集めるために、勤めていた会社を辞めて兄・一郎の計画へと参加した。兄は戦時中にニューギニア奥地の洞窟で発見した巨大なオパールを隠しており、片脚の不自由な彼に代わって仲間の小野寺、川尻と共に「戦死した友人の遺骨収集」を名目にした密輸計画が実行されることになる。

現地に到着した3人は、洞窟へと続くジャングル手前の集落で村人達と暮らしている日本人医師の松下博士から、その洞窟が「虹の谷」と呼ばれる禁忌の魔境と聞かされ、諌められるものの、欲に目のくらんだ一行は強引に突破していく。深いジャングルを進む途中、小野寺が底なし沼に落ちるものの、3人は何とか洞窟へとたどり着き、ついにオパールを発見した。そのとき、オパールを前に狂喜乱舞する川尻の脚に毒サソリが上っていたが、小野寺はわざとこれを教えず、川尻がサソリに刺されて悶え死ぬのを見殺しにした。これを機に、強欲な本性を現した小野寺は川尻の死に嘆く圭介ごと洞窟を爆破、1人オパールを携え、外国航路の日本船「あわじ丸」で日本へと向かう。

日本への途上、マラリアと水虫を患った小野寺は、あわじ丸の船医、佐藤の奨めによって赤外線による治療を受ける。しかし、神戸港へ着いた夜に船員から麻雀に誘われ、赤外線治療機の電源を切り忘れてしまう。小野寺がベッドの上に隠していたオパールは赤外線を浴びてひび割れ、やがて中から1匹のトカゲのような生物が生まれた。これはオパールではなく、伝説の怪獣「バルゴン」の卵だったのだ。

同じ頃、中国人宝石ブローカーとオパールの商談のため神戸港で密会していた一郎は、突然炎上沈没したあわじ丸を見て弟の圭介の安否を気遣う。一郎に対し、小野寺はニューギニアで圭介が谷に落ちたと嘘をつき、さらには目的のオパールがあわじ丸と共に沈んでしまったと説明する。その時、赤外線によって巨大化したバルゴンが、海面に紫色の体液を噴き上がらせながら神戸港に上陸。港を破壊し、大阪へと東進していった。

大阪へとやってきたバルゴンは、冷凍液を使って数々の名所や建築物を凍らせ、関西方面防衛隊を全滅させる。人類は鈴鹿のミサイル基地から、遠方からの攻撃を試みるものの、動物的本能で危険を察したバルゴンはプリズム状の背中のトゲから「悪魔の虹」(殺人虹光線)を放って周囲の人間を焼き尽した。しかし、その光線のもつエネルギーに誘われ、ガメラがバルゴンの元へと飛来。二大怪獣による「大怪獣決闘」が繰り広げられることになる。

≪総論・見どころ≫
怪獣同士の殺し合い。「大怪獣決闘」と謳うタイトルが冠されたこの作品では、ガメラとバルゴンという二大怪獣の血生臭い戦いを見ることが出来る。ガメラはバルゴンの持つエネルギーに惹かれそれを奪うために、人間の強欲によってニューギニアから日本に持ち込まれた卵から孵化したバルゴンは人間やガメラの攻撃から自身を守るために、それぞれがそれぞれの生存本能に従い衝突するのである。その闘いの中身も生々しく生物的で、火炎を吐いたり冷凍液や怪光線を用いるものの、両者とも殆どが生身でのどつきあいをし、巨大な体躯で相手に突撃したり、相手の急所に噛み付いたり、鋭利な爪で相手の眼を抉ったりする。流血表現は他の怪獣映画と比べても強めだろう。このような怪獣同士のリアルで生物的な争いを描いた点が、ガメラ対バルゴンという映画の魅力である。登場する怪獣が主に四足歩行でズルズルと移動するのも拘りがある。ちなみに、昭和ガメラと言えば子供の味方・ヒーローといった印象が強いが、この作品でのガメラにはそのような英雄的なキャラクター性は皆無であり、いうならば只の亀の化物である。

怪獣同士の戦闘のみならず、人間VS怪獣(バルゴン)という構図の中でも、バルゴンがダイアモンドに惹かれる・雨が苦手といった点に着目した作戦が展開されるなど、怪獣の持つ生物性を重視した作りとなっている(少々論理性というか話の展開の仕方に無理がある点はあるが)。他にも、バルゴンの持つ冷凍液の脅威を避けるために遠距離攻撃に徹する人間の作戦が、事前に脅威を察知したバルゴンの先制攻撃によって台無しになったり、人間側の作戦によって自傷を負ってしまったバルゴンが、その原因となった行動を決して二度とは行なわなかったり、後年によく見られるような、人間の兵器などものともしないインフレ気味な身体スペックに任せて暴れまわるような怪獣の表現はこの映画では徹底して避けられている。こういった描写の数々によって、バルゴンという怪獣を一個の生命体として生々しく、しかし非常に魅力的に表現されているといえよう。

しかし、それでも怪獣は超常の存在。人間の科学力ではバルゴンの脅威に対処しきれず、唯一の切り札も(人間側の悪役によって)失い、自衛隊を含めた登場人物たちが限界と絶望を感じ始める中、ガメラとバルゴンの、生物としての純粋な殺し合いが始まるのである。このような形でクライマックスを迎える怪獣映画は珍しい。

また、この作品では欲望渦巻く薄汚いダークなヒューマンドラマが展開されるのも特徴である。勧善懲悪の一面もあるものの、それらはあくまで、人間にのみ適用されるものである。怪獣はそれそのものの本質に従って生きているだけで、善も悪もない。怪獣の生物性を描く際にはこの点をしっかり押さえることも必要不可欠であり、そういった観点からもガメラ対バルゴンは一見の価値ありの作品である。

以下見どころ
ガメラによる黒部ダム襲撃
決壊するダムをミニチュアセットで表現した技術は素晴らしいの一言
・氷点下の大阪城
全てが凍りついた中で初戦を迎えるガメラとバルゴン。この二体以外には全てが静止した空間の中で、最初の殺し合いが始まる。


モスラ対ゴジラ(1964)」
「あの黄色い粉は何ですか?」「モスラの最後の武器です・・・」​
≪基本データ≫
1964(昭和39)年4月29日 上映(同時上映:蟻地獄作戦)
配給:東宝
観客動員数:720万人
製作:田中友幸 
脚本:関沢新一 
音楽:伊福部昭
特技監督円谷英二 
監督:本多猪四郎

≪ストーリー≫
巨大台風8号が日本を通過した翌日、毎朝新聞の記者である酒井と助手の純子は高潮の被害を受けた倉田浜干拓地で鱗のような物体を見つける。一方、静之浦の海岸には巨大な卵が漂着。ハッピー興業社の熊山は漁民から卵を買い取り、静之浦の海岸に孵化施設を兼ねた「静之浦ハッピーセンター」の建設を始めた。

巨大な卵を調査した三浦博士と酒井らだったが、彼らの目の前に小美人が現れる。彼女達によると、巨大な卵はインファント島に唯一残っていたモスラの卵で、卵を失った島の人々は悲しんでいるという。酒井たちは卵を返還するよう抗議活動を始めたが、熊山は応じないどころか、小美人まで売るように言い放つ始末。実は熊山の裏には大興業師・虎畑二郎がついており、抗議活動は頓挫してしまう。

そんな折、酒井と純子は三浦に呼び出され、放射能除去を受ける。実は倉田浜で見つけた物体から放射能が検出されたのだ。調査のため倉田浜に駆け付けた酒井たちの目の前に干拓地からゴジラが出現。四日市のコンビナート地帯と名古屋市を蹂躙した。酒井たちはインファント島に飛び、原住民達にモスラを派遣するよう懇願するが、「悪魔の火」と呼ぶ核実験によって島を荒らされ、モスラの卵の返還をも拒まれた原住民達と小美人は拒否。しかし、酒井たちの説得を聞き入れたモスラは、寿命が近づく身でありながら、日本へ向かった。

ゴジラ自衛隊の高圧電流攻撃にもひるまず、トラブルから熊山を射殺してしまった虎畑が滞在するホテルを破し、虎畑もその際に逃げ遅れて命を落とす。ゴジラモスラの卵がある静之浦に迫った時、モスラが飛来。二大怪獣が激突する。

≪総論・見どころ≫
モスラ対ゴジラは、1961年に公開された映画「モスラ」の続編にあたる作品であり、また、1962年公開の「キングコング対ゴジラ」以降、「メジャーどころの怪獣対決路線」という企画が東宝製作会社の中で明確に打ち出された頃の、いわば怪獣映画の黄金時代における一つの頂点を極めた作品と言ってもいいだろう。作品内で死闘を繰り広げるゴジラモスラは、いずれも以後の東宝特撮映画においてエース級の目覚ましい活躍を披露する名怪獣であるが、この「モスラ対ゴジラ」以降の両者のキャラクター性には大きな違いが生じることとなる。巨大な蛾の怪獣であるモスラは、「地球の守護神」「正義の味方」「人間の子供達を救うために悪役怪獣と戦うヒーロー」という、いわゆる分かりやすい「善の怪獣」として映されるのに対し、ゴジラは善も悪も超えた超常的な存在として描かれることが多い。そんな、明確に異なるキャラクター付を今後されていく両怪獣であるが、「モスラ対ゴジラ」においてはそういった「味付け」は薄く、むしろ両者ともに原始的・生物的な側面が比較的強く押し出されているのが特徴的である。

まずゴジラモスラ対ゴジラにおけるゴジラ(通称モスゴジ)は、他のゴジラ映画には珍しく「悪役」として描かれているとよく言われるが、別段そんなことはない。モスゴジの劇中の行動は決して悪性に従ったものではなく、ゴジラ1954で現れた初代ゴジラと同じく、自身の動物的本能(というより好奇心?)に従った結果である。倉田浜干拓地より出現したゴジラであるが、この個体が「ゴジラの逆襲」「キングコング対ゴジラ」のものと同一個体であったとしても、恐らく長い間眠りについていたのであろうと思われる(少なくとも人間側が厳重なゴジラ対策を常時展開する必要がなくなるほどには)。「起き抜け」の状態のゴジラは激しく暴れまわることもせず、周辺の散策でもするように四日市コンビナートから名古屋市内へと進撃(?)。途中テレビ塔に尻尾が引っ掛かってジタバタしたり名古屋城の堀に足を取られてずっこけたりと、コミカルな一面が見られるが、これもこのゴジラが永い眠りから醒めた後で寝ぼけ眼であったせいではないかと思われる。そして、静之浦へと辿りついたゴジラは自身の体長とさほど変わらないほどの大きさの卵を発見。興味を持って近づき、柵(保護施設)が邪魔だったのでぶっ壊していると巨大な蛾が飛来、いきなり突風で吹っ飛ばされたかと思うと尻尾を掴まれ引きずり倒され、おまけに毒鱗粉で攻撃されるという始末である(ちなみにこの毒鱗粉、モスラの最後の武器というだけあってかなり強力だったようで、鱗粉を浴びたゴジラは後遺症で次作「三大怪獣地球最大の決戦」では放射熱線が吐けなくなっている)。これではたまったものではないとゴジラも反撃、結果として親モスラを焼き殺してしまうことになるのだが、これら一連の破壊行動の根底に「ゴジラの悪意」たるものがあるわけではない。結局のところ、ゴジラにとっては目覚ましの散歩を邪魔するウザいやつ(蛾とか自衛隊の高圧電流攻撃とか)の露払いをした程度の認識でしかないだろう。この悠々自適とも取れる「余裕」はゴジラの持つ超常的な身体スペックに起因するものであるが、強大な力をもつ生物は屈するものが無い故に悠然と闊歩するものである。そういった意味で、モスラ対ゴジラにおけるモスゴジは、他の(特にこれ以前の昭和初期ゴジラ作品)映画で強調されるゴジラの凶暴性ではなく、自身の強大さ故に自由気ままに振る舞うゴジラという生物を変な味付けを加えずに素直に表現した結果であるともいえ、非常に興味深い。

それに対するモスラであるが、こちらにはゴジラとは打って変わり、「必死」という言葉がよく似合う。ゴジラモスラでは成虫モスラ(親モスラ)と幼虫モスラ(子モスラ)が二度にわたってゴジラと戦うことになるが、どちらの場合も、モスラは「人間を救うため」というある意味チープな理由で戦うのではなく、自身の生物としての本能に従い、外敵であるゴジラと死闘を繰り広げることになったのだと自分は感じた。確かに劇中にて主人公の新聞記者たちがモスラの故郷であるインファント島に乗り込み、原住民・小美人たちと共にゴジラと戦うようモスラを説得、人間側の願いを聞き入れモスラゴジラ迎撃に飛び立つというシーンがあるが、結局のところ、モスラ(ここでは親モスラ)は、自分の卵が危険に晒される可能性があったから、残り少ない命を賭してゴジラとの戦いに向かったのではないだろうか。上述したように善の怪獣として描かれることの多いモスラであるが、モスラ対ゴジラにおいては、そのような聖人菩薩のような善性からではなく、自身の子孫を守るためという、一個の生命体としての生存本能に従った行動を取ったように思えてならない。怪獣とはいえ一顧の生物、自身の命を賭して戦うのであるとすれば、それは自分や自分の子の生命を守るためであるべきであろう。そういった生物的な解釈がすんなり収まるといった点で、自分にとってモスラ対ゴジラという作品におけるモスラの描写は魅力的に見える。ちなみに、親モスラの死後孵化した子モスラが引き続きゴジラとの戦いに赴くことになるが、これもまた、人間を救うためというよりかはゴジラによって殺されてしまった親の敵を討つ、という理由に依るものが大きいだろう。敵討ちなんていうと非常に人間臭い概念であるが、人語を解し、インファント島の原住民と長い間共存できるほどに高い知能レベルを持つモスラならば、そのような行動を取ってもおかしくはないのではないとも思う。

以上のように、モスラ対ゴジラという映画では、自身のもつ力の強大さ故に何者も恐れず悠然と振る舞う外敵=ゴジラと、子孫繁栄のために命を賭して抗う生命群=モスラという、異なる生物の在り方が二大怪獣によって表現されており、非常に興味深い。

なお、余談になってしまうが、モスラ対ゴジラは「オプチカルプリンターの導入により実写と特撮シーンの合成レベルが飛躍的に上がった」最初のゴジラ作品である。名古屋市内で暴れるゴジラなど、実写合成におけるオプチカルプリンターの功績は随所に見て取れるので、そういった点からもこの作品を鑑賞してみれば面白いと思う。

以下見どころ
・どう見ても腹巻巻いた日本人のオッサンにしか見えないインファント島民
この作品の笑いどころの一つ。明らかに日本語話してるし。もうちょっとマシな演出は出来んかったのかとも思うが、予算の限られた怪獣映画でそこまで細かいところまではカバーできなかったんだろう。インファント島内部のジオラマセットもバラエティ番組レベルのお粗末な作りであるが、そこはほら予算が。。。
・静之浦、成虫モスラ対ゴジラの死闘
上述したオプチカルプリンタによる実写合成技術の向上を見て感じることが出来る最も印象的なシーンが倉野浜干拓地でのゴジラ出現と、静之浦の死闘である。特撮映画においては、実写映像の中に違和感なく特撮映像を混ぜ合わせることで、あたかも怪獣が現実の光景に出現したかのように効果的に表現することができる。該当シーンにおける、砂丘で戦う二大怪獣とそれを遠巻きに見守る人間の対比は、以降の特撮映画の実写合成シーンと比べても遜色ない仕上がりである。成虫モスラの操演も生物的で生き生きとしており素晴らしい。羽ばたきごとに極彩色の羽根の先端まで弛むのがとてもいい。


ゴジラVSキングギドラ(1991)」
「前よりも、ずっと大きい・・・」
≪基本データ≫
平成3年(1991)12月14日公開
配給:東宝
観客動員数:270万人
製作:田中友幸 
音楽:伊福部昭
特技監督川北紘一
脚本・監督:大森一樹
協力
[防衛庁]
長官官房広報課

陸上自衛隊
陸上幕僚監部
東部方面航空隊
富士学校
富士教導団
美幌駐屯地 

海上自衛隊
海上幕僚監部
護衛艦「ひえい」
特務艦「あきづき」
第124航空隊 

航空自衛隊
航空幕僚監部 

≪ストーリー≫
1992年7月、突如東京上空に巨大なUFOが飛来した。後日、富士山麓に着陸したUFOからメッセージが届き、中からウィルソン、グレンチコ、エミーと名乗る3人の人物が姿を現す。彼らの言い分によると、自分達は23世紀の地球連邦機関の使者であり、21世紀に復活したゴジラによって日本が壊滅的打撃を被る前に、ゴジラを抹殺する目的でやって来たのだという。

彼らはノンフィクションライターである寺沢健一郎が著書『ゴジラ誕生』の中で記した、「ラゴス島に生息していた恐竜が、1954年にビキニ環礁で行われた核実験によりゴジラへと変異した」という仮説に基づき、そこから恐竜を別の場所に移動させてゴジラを誕生させないようにするという計画を立てた。

未来人のエミー、アンドロイドのM11と共に寺沢、三枝未希、大学教授の真崎らも1944年のマーシャル諸島ラゴス島へと赴き、戦時中の日本軍ラゴス島守備隊をアメリカ軍から救った1頭の恐竜(ゴジラザウルス)を目撃する。恐竜は未来人達の手によって、ベーリング海へと転送される。これにより、ゴジラは歴史から完全に抹殺されたものと思われた。

しかし、寺沢達が1992年に戻ってくると、ゴジラの消滅と同時に太平洋上にキングギドラが出現していた。その裏には、後に地球一の超大国へと肥大化し、世界経済を一手に支配することとなる日本の国力を消耗させんとする、未来人の策略があった。

未来人にコントロールされたギドラは福岡は壊滅させ、日本全土を次々に蹂躙していく。この危機に対し、かつてラゴス島でゴジラザウルスに救われた帝洋グループ総帥・新堂靖明は、ゴジラを復活させるべく核魚雷を搭載した原子力潜水艦「むさし2号」を、秘密裏にゴジラザウルスが転送されたベーリング海へと派遣した。しかし、すでにゴジラザウルスは先の原潜沈没事故で未回収となっていた核廃棄物の影響で怪獣化しており、さらにむさし2号の破壊によって膨大な核エネルギーを吸収した“ゴジラ”は、以前よりもはるかに強力な怪獣へと変貌していたのだった。

≪総論・見どころ≫
ゴジラVSキングギドラは、いわゆる川北紘一監督による”平成ゴジラシリーズ”の第一作にあたる作品である(前作のVSビオランテからを平成ゴジラシリーズと呼ぶ場合もある)。以前「平成ガメラシリーズはリアリティ、平成ゴジラシリーズはロマン」という言葉を関連の記事に書いたと思うが、平成ガメラシリーズが特にガメラ2に代表されるように「災害パニック映画」としてのリアリティを追求した比較的大人向けの作品であったのに対し、平成ゴジラ映画はファミリーをターゲットとしたお正月映画として、怪獣同士のド派手な戦いや巨大ロボットなどの特殊兵器の登用など、現実性よりもよりファンタジックでインパクトのあるストーリーや演出がメインとなっている。本作もそういった一連の作品群のハシリとして、またバブル絶頂の時代に作られたエンタテイメント映画として、「でかい・重い・派手」の三拍子揃った表現、および「細けぇこたぁいいんだよ!」とでもいうかのようなインパクト重視のストーリーが盛り沢山である。敵怪獣には東宝屈指の名悪役であるキングギドラを据え、高度経済成長の結果巨大化した建造物の存在感負けないよう怪獣のサイズも100m超にグレードアップ、轟音と呼ぶに相応しい音響効果や川北監督お得意の色とりどりの光線を交えたバトル・火薬たっぷりの爆発演出によって巨大怪獣のパワーが真正面からぶつかり合う様子を迫力十分に仕上げた特撮シーンに、未来人・タイムトラベルなど怪獣映画としては異色なSF要素を多量に盛り込んだストーリーなど、本作は娯楽映画としての色を前面に押し出した作品といっていいだろう。1975年の「メカゴジラの逆襲」以来、実に16年ぶりにゴジラ映画に復活した伊福部昭氏による劇中音楽も、本編の迫力に負けず劣らず、どっしりとした躍動感溢れる旋律を提供してくれる。

さてここで、先に挙げた自分にとっての怪獣映画のロマンをこの映画に見出すならば、その魅力は、「ゴジラという怪獣のルーツを初めて明確に映像化した作品である」という点にある。恐竜の生き残りが水爆実験によって巨大・凶暴化したという設定がゴジラにはあるが、ゴジラの起源となったその恐竜を「ラゴス島のゴジラザウルス」として本作品にて出演させたことで、ゴジラVSキングギドラ、ひいては平成ゴジラリーズでは、より生物学的な側面からゴジラという存在に迫ることが出来たといえよう。この点は、のちに紹介するゴジラVSメカゴジラゴジラVSデストロイアといった作品で顕著にみられる「怪獣という生物が織り成す生命のドラマ」にも深く関わってくる要素でもある。ゴジラという一個の生命が、どのような行動理念で生きているのか、その命の在り様を効果的に描いたという観点から自分は平成ゴジラシリーズがとても好きなのであるが、本作においても、ド派手な特撮シーンやある種トンデモなストーリーの中に繊細な「怪獣ドラマ」が織り込まれており味わい深い。

本作の有名なシーンに新堂会長(元ラゴス島守備隊隊長)と現世に再び蘇ったゴジラが対面するシーンがあるが、WWⅡにて人間同士の戦争に巻き込まれ、瀕死の重傷を負いながらも自分のテリトリーを守るために戦ったゴジラザウルス、そのある意味「なれの果て」ともいえるゴジラが、過去の戦場に共にあった人間に再び相対し何を思ったのだろうか。そしてその後何故あのような行動を取ったのだろうか。ものの本によれば、ゴジラとここまで長く対面した人間はシリーズを通してこの新堂のみであり、直接的ではないにしろ「ゴジラが涙を流す」と取れる類の演出がなされたのもまた、長い歴史を誇るゴジラ映画においてはこのシーンとVSデストロイアのある場面を除いて他にない。ゴジラのような生物にはあまり人間的な情念や感情を投影したくはないのだが、そのような背景を鑑みれば、該当シーンにてゴジラが抱いたであろう特別な感情に思いを馳せることを禁じ得ない。そして、それはまた同時に、強大な力をもつ超常の存在であるゴジラという怪獣にも垣間見える繊細な情緒に気づくことにも繋がり、ゴジラという怪獣の持つ魅力にますます惹かれる要因になるのだろうと思われるのである。特撮シーンの重厚な演出だけでも十分見ごたえのある本作であるが、上記のような観点からもぜひ楽しんで貰いたい。

以下見どころ
ラゴス島守備隊撤退前夜
ここの、瀕死のゴジラザウルスに敬礼する新堂が素晴らしい。昭和初期の作品を除き、怪獣映画における人間側の演技はどことなく棒だったりわざとらしかったりして時々辟易するのだが、このシーンでの土屋嘉男の演技は別格。自分たちを守ってくれた恐竜に恩義を感じながらも島を離れなければならない新堂隊長の無念さをよく表現されていると思う。皆このくらい力を入れて演技してくれればいいのに。
地球岬にて、ゴジラ北海道上陸
歴代のゴジラ上陸シーンでもトップ3には入る。伊福部氏のゆっくりとしたゴジラのテーマがより強大となったゴジラの描写によく合うんだ。
ゴジラVSキングギドラ、網走平原第一次会戦
それまでのゴジラシリーズにはなかった、怪獣同士の重厚なバトル表現はこのシーンから始まる。何気にそれまでゴジラキングギドラが1対1で戦ったことはなかったため、いったいどちらが勝つのか子供心に身震いした記憶がある。
・新宿副都心最終決戦
数億円という予算をかけて組まれた、ゴジラ映画の中でもトップクラスのクオリティを誇る新宿副都心高層ビル群のミニチュアセット。その中で死闘を繰り広げる二大怪獣。現代の映像作品のように建築物の破壊描写をCGに頼らず、実際に組んだミニチュアをぶっ壊す手法で撮影された特撮シーンには、やはりCGには出せない迫力がある。怪獣同士の死闘を遠巻きに眺める自衛隊の視点や、広大なセットの全景を見渡すような引きのシーンなど、巧みなカメラアングルにもぜひ注目。


ゴジラVSメカゴジラ(1993)」
命あるものとないものの差
≪基本データ≫
1993(平成5)年12月11日公開
配給:東宝
観客動員数:380万人
製作:田中友幸
脚本:三村渉
音楽監督:伊福部昭
特技監督川北紘一 
監督:大河原孝夫 

≪ストーリー≫
1992年、立て続けに受けたゴジラ被害に対応すべく、国連はG対策センター(U.N.G.C.C:United Nations Godziila Countermeasure Center)、および対ゴジラ部隊Gフォース(G-FORCE)を筑波に設置した。G対策センターは対ゴジラ戦闘マシンの開発計画として、まず1号機ガルーダを試作。しかしガルーダは攻撃力に問題があり、新たに2号機の開発に取り掛かる。まず、海底からメカキングギドラを引き揚げ、23世紀のテクノロジーを解析。そして、そこから得られた技術を元に究極の対ゴジラ兵器「メカゴジラ」が完成した。

1994年、ベーリング海のアドノア島で翼竜の化石が見つかり、国立生命科学研究所の古生物学者である大前裕史を中心とした調査隊が出向いたところ、そこには孵化した後の卵の殻と孵化していない卵があった。調査隊は卵をテントに持ち込み分析していたが、巨大な翼竜ラドンが姿を現す。逃げ惑う調査員たちに追い討ちをかけるかのごとく今度は海からゴジラが姿を現し、ラドンと戦い始めた。隙を見てヘリコプターに乗り、島から脱出した調査員たちは、持ち帰った卵を京都の国立生命科学研究所に持ち込む。

無類の翼竜好きのGフォース隊員・青木一馬は、卵のことを知って国立生命科学研究所を訪ね、卵を観察していた研究員・五条梓の前で悪戯心から研究室にあった植物の化石を持ち帰ってしまう。ところが、三枝未希がその植物から奇妙な波動を感じた。さらに、そこから再現された音楽を聴いた卵が突如孵化を始めた。ゴジラザウルスの幼獣が生まれたのだ。

そして、ベビーと名付けられた同族を取り返すためか、ゴジラ四日市市に上陸した。Gフォースメカゴジラの出撃命令を下し、メカゴジラゴジラに向いて飛び立っていく。しかし、ゴジラはその圧倒的パワーでメカゴジラに勝利する。ゴジラはそのままベビーのいる京都に進撃し国立生命科学研究所を襲うが、地下の細胞保存室に移されていたベビーを感知することは出来ず、大阪湾へ去った。

ゴジラがベビーを求めていることを察したGフォースは、梓たちの反対を押し切り、ベビーを囮にしてゴジラをおびき出す作戦にでる。だが、空輸コンテナは復活したラドンによって奪取され、千葉の幕張へ降ろされる。そこにゴジラが出現。修理を終えたメカゴジラも出撃し、両者は再び幕張の地で相対する。

≪総論・見どころ≫
本作「ゴジラVSメカゴジラ」は、ゴジラ生誕40周年記念作品であったことや、また当時製作が決定されたハリウッド版巨大トカgもといUSAゴジラの影響もあり、当初としてはVSシリーズ最終作の予定で作られた映画である。結局ハリウッド版の製作が遅れたことで平成ゴジラシリーズはこの後VSスペースゴジラ、VSデストロイアと続いていくわけであるが、仮とはいえ最終作、幕張開拓地を忠実に再現した約千平方メートルのミニチュアセットやシリーズ最高の火薬量による特撮シーンなどに加え、ストーリーなどにも最終作を意識した要素がいくつか見られる。何より特筆すべきは冒頭より明確に示される「ゴジラVS人間」の構図であろう。VSメカゴジラとタイトルにあるが、本作品にて登場するメカゴジラは、「ゴジラ対メカゴジラ」や「メカゴジラの逆襲」のような宇宙人の侵略兵器ではなく、人間側が23世紀のオーバーテクノロジーを先取りして開発した「対ゴジラ用決戦兵器」としての役割を与えられている。第一作においては一人の天才科学者の尊い犠牲によりゴジラに対しからくも勝利を収めた人類であるが、その後のゴジラ映画では(ゴジラがヒーローとなった時代を除き)人類は例外なく蹂躙される側、ゴジラの持つ強大な力に圧倒される側で辛酸を舐め続けてきた。搦め手を使ってもせいぜいゴジラを氷河の中や火山の噴火口に閉じ込めるにとどまり、最先端のバイオテクノロジーの成果である抗核バクテリアゴジラの復活により水の泡と消え、92式メーサー戦車やスーパーX・X2などの超兵器もゴジラの放射熱線の前に次々と砕け散っていった。そんな人類が、ついにゴジラと同等の力を持つ兵器を作り上げ、ゴジラと真正面のパワー勝負を挑むのである。ある意味最終回に相応しい展開といってもいいだろう。劇中でも、人類側の主役であるG-FORCEの面々は、ゴジラという生物を徹底的に研究し、弱点を調べ上げ、使えるものは何でも使うことで、何としてでもゴジラの生命を絶とうと必死になって戦うことになる。この、ゴジラや怪獣が大好きな人間(あるいは子供達)にとってはともすれば「人間側が悪役」ともとられかねない演出であるが、実際にゴジラのような怪獣が現れたならば、人類側はどんな犠牲を払ってでもこれを排除しにかかるだろう。人間が生み出した怪獣故にそれは人間側のエゴともいえるが、それほどまでにゴジラの持つ力は強力無比であり、人間とゴジラが共存することは極めて難しい問題なのである。

ここで、メカゴジラというスーパーウェポンを手にしゴジラへの徹底抗戦に挑む人類に立ちはだかるのが、本作を取り上げた最大の理由である「怪獣という生物がもつ本質的な生命力」である。人間が怪獣から生き逃れるために戦うように、怪獣もまた一個の生命として生き続け、あるいは自らの命を犠牲にしても次の世代に続く命を助け、生命の連鎖を紡ぐために必死に戦うということで、それらが相反するものとなれば決着を付けなければならないのである。ただ、これまでのゴジラには、そのように命がけで戦う描写はあまりなかったように思う。勿論「ゴジラの逆襲」の対アンギラス(初代)だったり、VSキングギドラの網走平原での闘い、またはVSモスラでの太平洋沖でのバトラ幼虫との戦いなど、「外敵を排除するための殺し合い」といえばそれにふさわしい熾烈なバトルは幾つかあったものの、やはりゴジラの力が強大すぎるが故に、いうならばゴジラという怪獣の完全性ゆえに、ゴジラが命がけで自分という生命にとって重要な何かを守るために戦うという印象を抱くことはほとんど無かったように思う。自身に立ちはだかる邪魔者を薙ぎ払っているだけ、といえば一番しっくりくるだろうか・・・。

そんなゴジラに、一個の生命として極めて重要な「戦う理由」が与えられたのが本作であり、そのキーパーツとして、ゴジラの起源となった恐竜ゴジラザウルスの幼体”ベビーゴジラ”が登場するわけである。ゴジラに近い血縁のものとしては「ゴジラの息子(1967)」などでミニラが登場し、同作ではミニラを巡ってゴジラカマキラス・クモンガなどが攻防を繰り広げるシーンがあることにはあるのだが、完全に子供向けの映画ということもあり、イマイチ真剣味に欠けた。対して本作では、ゴジラは自身の同胞を巡り、卵を求めて上陸したアドノア島では、実に25年ぶりに銀幕への復活を果たした翼竜怪獣「ラドン」と、卵から孵ったベビーゴジラを人間の手から取り戻すために日本へ上陸したのちは、ゴジラの息の根を止めるべく過去最大の戦力を整えた人類+メカゴジラと対峙する。平成ゴジラシリーズ(+84, VSビオランテ)のストーリーから考えれば、この世に生まれ出でてからこれまでを孤独に生き、初めて自分に近しいものを見つけたゴジラが、それを取り戻すためにその強大な力をふるう。ゴジラに敵対した人類は、ゴジラという怪獣そのもののもつ力に加え、自身に近しいものを守るという、生命としての本質的な力にもまた抗わなければならないのである。「命あるものとないものの差」。本作品にて極めて印象深く残るのは、メカゴジラを駆り、そして怪獣たちのもつ「生命力」に直面したパイロットが不意に漏らすこのセリフである。怪獣は怪獣である前に一個の生物であり、然らば命無き兵器にはない強烈な意思(あるいは本能)の力が怪獣には宿っている。ゴジラだけではなく、ラドンもまた、(托卵の性質上)同胞であるベビーゴジラを助けるため、自身の命を投げ打ってまで戦う。そんな、架空の存在であるはずの怪獣に対する「生命賛美」の演出が強く押し出されることで、平成ゴジラシリーズに共通する「怪獣ドラマ」というテーマは本作品において極限まで昇華されることとなる。過去最大級の爆炎と煌びやかな光線飛び交う特撮演出に挟まれる、そういった繊細かつ神秘的なファクターもまた、本作を通じて怪獣映画の魅力として感じてもらいたい部分である。

以下見どころ
・OP
VSメカゴジラとVSデストロイアのOPはガチでカッコイイ。歴代怪獣映画の中でも1,2を争うだろう。
・表情豊かなゴジラ
平成ゴジラシリーズでは、ゴジラの顔のアップを映すシーンで使用するために上半身だけのスーツに機械フレームを入れたメカニカルモデルが導入されている。ゴジラVSキングギドラでの新堂会長と対面するシーンなどで印象的な表情を見せたのもこれであるが、ゴジラの表情の表現は、VSメカゴジラのものが一番イキイキしているように思う。自らの放射熱線の直撃にびくともしないメカゴジラに慄くときや、ベビーゴジラを迎えるときの優しげな表情など、これらの細かな表情変化の演出もまた、ゴジラという怪獣をより身近な生物として感じられるようにしている。
・ベビーゴジラの咆哮からゴジラ復活までの一連のシークエンス
書くよりそのまま見た方が良い。生命の持つ神秘的な力の極致。
・ED
自分がゴジラシリーズで一番好きなエンディング。このエンディングのために書き下ろした伊福部昭氏の音楽以外に、「生命賛美」と呼ぶに相応しい力強い旋律をもつ音楽を自分は知らない。

 

その③に入り切らなかったので最後だけ分割。

ゴジラVSメデストロイア(1995)」
これがゴジラの最後の戦いになるかもしれない
≪基本データ≫
1995(平成7)年12月9日 公開
配給:東宝
観客動員数:400万人
製作:田中友幸、富山省吾
脚本:大森一樹
音楽監督:伊福部昭
特技監督川北紘一 
監督:大河原孝夫 
協力:
防衛庁
[長官官房広報課]
[陸上自衛隊]
陸上幕僚監部
東部方面総監部
富士学校
富士教導団
滝ヶ原駐屯地業務隊 
[海上自衛隊]
海上幕僚監部

≪ストーリー≫
1996年、バース島が消滅し、ゴジラとリトルゴジラが姿を消した。1か月後、香港に出現したゴジラは従来と違い赤く発光し、赤い熱線を吐きながら香港の町を蹂躙していった。バース島消滅は、その地下の高純度の天然ウランが熱水に反応した結果の爆発であり、その影響を受け体内炉心の核エネルギーが不安定になったゴジラは、いつ核爆発を起こしてもおかしくない状態であった。

同じ頃、東京湾横断道路の工事現場で工事用パイプが溶解するトラブルが相次いで発生。しながわ水族館では魚が突然水に喰われる様に白骨化する怪事件が起きる。その原因は、かつてオキシジェン・デストロイヤーを使用してゴジラを死滅させたとき、海底に眠っていた古生代の微小生命体が無酸素環境下で復活し、異常進化を遂げた恐るべき生物・デストロイアであった。デストロイアは急速に巨大化し、人間大の大きさとなって警視庁の特殊部隊SUMPを襲い、更には自衛隊の攻撃に対して集合・合体し、40メートルの成長体と化して破壊の限りを尽くす。

御前崎沖に、ゴジラより小さい、ゴジラジュニアと呼ぶべき怪獣が出現した。それは行方不明となっていたリトルゴジラが、天然ウランの影響を受け成長した姿であった。バース島を失ったゴジラジュニアは、自らの故郷であるアドノア島へ帰ろうとしていたのだった。

ゴジラは、四国電力伊方発電所を襲撃しようとした際にスーパーXIIIの放ったカドミウム弾を受け、体内の核分裂が制御され始めたため、核爆発の危機を免れる。しかし、今度は体内炉心の温度が1200度に達した時にメルトダウンが発生することが判明。地球が灼熱の星と化してしまう危機が訪れる。もはやゴジラを倒せるのは、オキシジェン・デストロイヤー=デストロイアしかいない。ゴジラデストロイアを戦わせるため、ゴジラジュニアを囮としてデストロイアに向かわせる作戦が提案される。 こうしてゴジラの最終決戦が始まろうとしていた。

≪総論・見どころ≫
ゴジラ死す」と銘打たれた、平成ゴジラシリーズの総決算にして、40年以上・22作以上もの作品を紡ぎ続けたゴジラ映画の終着点。特撮怪獣映画概論はこの「ゴジラVSデストロイア」の紹介で最後となるが、本作は、長い長い歴史を持つゴジラ映画の威厳ある最終作として(ミレニアムシリーズはファン映画なので除く)、そしてまた本エッセイの最後を飾る作品として最も適切であると自分は考える。そういって差し支えないほど、本作にはこれまで自分が拙い文章力で伝えてこようとしてきた「怪獣映画の魅力・ロマン」が全て内包されているのである。確かに災害パニックのシュミレーションとしてのリアリティには(平成ゴジラシリーズのご多分に漏れず)少々欠ける点があることは否めず、その点においてはガメラ2やゴジラVSビオランテなどに劣るのは確かである。が、その他の、例えば群体をなし人間その他全てのものを溶解しながら進撃するまさに殺戮の権化たる「デストロイア」という怪獣の設定・造型やその脅威が本格的に明るみに出るまでのホラー的演出は昭和初期から久しく失われた怪獣表現に近いものがあるし、電飾により100kgを超えたスーツや炭酸ガスの噴出というスーツアクターにとって地獄ともいえる装飾によって表現されたバーニングゴジラにはよもやCGなどでは表現できない実在感・重量感が伴っている。こういった怪獣表現以外にも、忠実に再現された有明臨海副都心のミニチュアセット上で繰り広げられる「川北演出」の極致ともいえる爆発・破壊演出、何より「自分がお産婆さんをやったから、最後も看取る責任も感じまして」といって本作の劇中音楽を担当された伊福部昭氏の魂の籠った重低音溢れるサウンドなど、あげれば枚挙に暇がないほど、他作品と比べても圧倒的といえるような演出が詰まりに詰まっている。それもこれも、ゴジラという怪獣の最期を作り上げるため、特撮映画製作スタッフの技術の総決算と執念が集積した結果であろう。

東宝特撮映画の全てをつぎ込んで製作された本作の魅力はとても文字だけでは語りつくせないが、一つだけ、この作品から強く感じられる「ロマン」について語るならば、それは「ゴジラという生物の、自身の命の終わりが近づこうと最後の最後まで死力を尽くし戦う、怪獣王として威風堂々たる有様を見事に描き切った」ということになるだろう。劇中にて心臓部ともいえる原子炉が暴走し、生命としての限界を迎えつつあるゴジラは、最後の闘いとして、40数年前に自身の同胞を屠った最終兵器「オキシジェン・デストロイアー」の落とし子ともいえるデストロイアと、生死の限界すら超えた死闘を繰り広げることになる。前々作VSメカゴジラおよび前作VSスペースゴジラにおいて、同族ベビー(リトル)ゴジラのために戦ってきたゴジラであるが、今作においても、ゴジラの闘いの理由はベビー・リトルの成長した姿であるゴジラジュニアに起因するところが大きい。しかしながら、今作のゴジラにとってデストロイアとの戦いはこれまでのような「何かを守るための」闘いではなく、同族を殺された敵討ち、憎き外敵を「殺しつくす」ための闘いである。自身の最後の仲間であるゴジラジュニアを無残にも殺害されたゴジラは、命の危険も顧みず、燃え上がるような怒りに身を任せ、溢れ出るエネルギーで周囲を焼き尽くしながらデストロイアに襲いかかる。かつてここまでゴジラが「ブチ切れた」ことはないだろう、初代ゴジラを葬ったオキシジェン・デストロイアーの恐るべき力さえ意に介さず、完全生命体のはずのデストロイアが死に怯えるほどの劫火を、鬼の形相で殺意をむき出しにしながら発するゴジラ。一連の平成ゴジラシリーズにて「生物」としての側面を数多く描写されてきたゴジラであるが、最終作にして、この怪獣の本質が「燃え上がるような怒り」と「いかなるものにも超えることのできない圧倒的な力」にあることを、我々に見せつけてくれるのである。瀕死の重傷を負った仲間の無残な姿に涙し、その残り僅かな命を慈しむ一方、自らが死の際に立ちながらも決して強敵に退くことはなく、殺すべき相手を強大な力をもって蹂躙する。そんな、怪獣王ゴジラのもつ魅力のひとつひとつが、消え入る瞬間最大に燃え上がる蝋燭の炎のように強烈に銀幕に映し出されていき、闘いを終えたゴジラは静かに眠りにつくのである。人間の業によって生み出されながらも、一生命体として圧倒的なまでに生を謳歌した怪獣、ゴジラ。本作を見る人ならば、恐らく少なくない数のゴジラ映画に触れ、それぞれがそれぞれにゴジラという怪獣に対し愛着や憧憬、畏怖といった様々な感情を持ち合わせていることだろう。そのような人たちには、ここで挙げたように自分の定義する「ロマン」についてつらつらと語るのもおこがましいことではないか、とも思う。ぜひ、特撮怪獣映画鑑賞の締めとして、個人の思うままにゴジラという怪獣の最期を看取ってあげてほしいと思う。

以下見どころ

・全て
これについてはもう書く必要がない。OPからEDまで、すべてが見どころである。ご賞味あれ


References
【怪獣wiki特撮大百科事典 http://wiki.livedoor.jp/ebatan/
Wikipedia
自衛隊イラク派遣5:若者照準、映画に協力 http://www.asahi.com/special/jieitai/kiro/040323.html
ゴジラ-特撮SIGHT http://www.k5.dion.ne.jp/~god-sf/index.html
【みんなのシネマレビュー http://www.jtnews.jp/index.html
【日本の軍事=安保環境と巨大怪獣映画 http://blog.goo.ne.jp/weltstadt_16c/e/7c08edf7a098cf3f2436c1d96f55b3c9
平成ガメラ Blu-Ray BOX 映像特典~15年目の証言~】
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